「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEXpastwill


2001年10月30日(火) もう一度『武揚伝』のススメ

題:137話 鹿の道 人の道17
画:体温計
話:世の中は大きく変わっている。もう私の時代ではない。

今夜は、宗方乾へのトリビュート、もう一度『武揚伝』のススメであります。
http://www.d1.dion.ne.jp/~daddy_jo/newpage16.htm
作者の佐々木譲さんご自身による熱い「武揚伝ノート」も是非ご参照あれ♪

日本史上、未曾有の変革期であった幕末に、己の「負け方」をとことん追求した男たちがいた。
その筆頭が、新政府に恭順することを潔しとせず、北海道に独立政府を建てようとした男、榎本武揚である。

いま、日本は「一億総負け組」の時代の波に呑み込まれている。 高度経済成長期、バブル期、そしてIT革命…、ひとたび「勝ち組」の地位を得た者もまた、次の波で「負け組」の仲間入りをする。ひたすらに「勝ち組」を目指してきた日本人にとって、いま求められるのは負け方の美学ではないだろうか?「勝ち組」になることが唯一絶対の価値なのか、一人一人がその問い直しを迫られている時代。武揚は、幕末にあって既にそれを先取りしていた。

伊能忠敬の高弟を父に持ち、天文地理に関心を持ちながら幼少期を過ごした武揚は、昌平坂学問所で官学であった
儒学を学ぶも飽きたらず、蘭学に関心を寄せるようになる。日本を揺るがす一大事件、ペリー来航を迎えたのは17歳、最も多感な時期であった。武揚は箱館奉行・堀織部正の従者として政情穏やかならざる蝦夷地を巡察し、アメリカで教育を受けた漂流者・ジョン万次郎について英語を学びはじめる。20歳の時、長崎海軍伝習所に入学し、蒸気機関学、造船学、物理、化学等を修める。26歳の時、幕府留学生としてオランダに派遣され、4年間の滞欧を経て、造船技術と卓越した国際知識、そして同じオランダ留学組のかけがえのない友人たちを得る。

幕府がオランダに注文した軍艦開陽丸を回航して帰国。時あたかも1867年、戊辰戦争前夜の日本に戻り、直ちに即戦力として幕府海軍の事実上の司令官を任される。戊辰戦争では、大阪城での軍議の席で強硬に抗戦を主張するも最高司令官・徳川慶喜に容れられず。この席で新撰組副長・土方歳三と出会い、お互いを認め合う。
慶喜の恭順後、艦隊を率いて当時、蝦夷ガ島と呼ばれた北海道に脱出。オランダ語、英語、フランス語に堪能だった武揚は、江戸脱出から五稜郭での降伏まで、ものごとの節目節目で声明を発表して、そのつど自らの信念や政策を明らかにし、欧米列強を相手に巧みな外交戦術を展開する。開陽丸を旗艦とする幕府海軍を楯にして、国際的に重要な津軽海峡を押さえ、北海道の豊富な資源に拠って、明治新政府と拮抗するというビジョンを掲げ、日本史上初めての選挙によって北海道政権の総裁に選ばれる。武揚を支えたのは、長崎海軍伝習所やオランダ留学時代の友人たち、そして土方歳三をはじめ新政府に抵抗する男たちだった。

緊迫する津軽海峡を挟んで新政府軍と対峙する生まれたての「北海道共和国」は、当時日本最強最大を誇る戦闘艦であった開陽丸の不運な海難事故を転機に、一気に形成が不利にある。それを挽回するため、土方らが起死回生の反撃を試みるも、作戦は失敗。貴重な戦力を消耗しながら、新政府軍の物量作戦に耐え、五稜郭に拠って壮絶な籠城戦を繰り広げる。「勝ち組」に異を唱え、義を通し、理想の旗を高く掲げた共和国の夢は潰えた。

もし武揚が描いたグランドデザインに基づいて近代日本が作られていたなら、いま声高に「構造改革」が叫ばれる必要すらなかったのではないか。そう思わせる男が幕末にいた。国際的な知識と外交センス、合理的思考を重んじ技術を愛するスペシャリスト、一本気な江戸っ子気質、仲間たちに担がれる人望の持ち主。
この物語は、現在の日本人に大きな勇気と生き方のヒントを与える幕末スペクタクル巨編である。


時風 |MAILHomePage