「静かな大地」を遠く離れて
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2001年07月18日(水) そこにはエンヤが流れている

題:36話 最初の夏6
画:玉蜀黍
話:熊、そして火とのつきあい方に表れる精神性

夏休みミチオ特集として、昨夜アップした文章の少し前に書いたもので
インチキ更新いたします(^^;
ええ、本業が多忙で難儀しているのです。

後に1999年から2000年の年越し=ミレニアム越しを、
独りダブリンで迎えることになった布石が、このへんにあったかも。
暑いトウキョウを基準に考えるなら、なかなか涼しい気分を追体験
していただけるタイムリーな文章かもしれません。

なお今出ている『ナショナルジオグラフィック』誌の特集が
「グリズリー」で、昨日紹介した本のようなことが簡潔にインパクトの
ある写真とともに紹介されていますので、ご関心の向きは、ぜひ。

それでは、どうぞ、お読み下さい♪

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  「そこにはエンヤが流れている」

3月の週末の朝、マンションの近くの地下鉄の駅の入り口にある
いつもの喫茶店で本を読もうと、スコーンとダージリンを注文する。
北海道は生クリームの平均点が高いからというのもあるが、
ここはシフォンケーキなんかも美味しい。
昨夜黒ゴマのシフォンを食べたので、今朝はブルーベリー・ジャム
付きのスコーンにしたというわけだ。
本を読むことが充分できる明るさだが全体としては木を基調にした
暗めの店内で、日本の少し洒落た感じの喫茶店が予め申し合わせた
ようにこういう内装を施すのは何故か、と思いつつもネルドリップ
で淹れられるコーヒーや、店で作っている多彩な自家製ケーキの味
に魅かれて通っている。

休日の午前中のBGMは、エンヤに決まっている。
当番の女性のお気に入りのようだ。
凛とした面立ちのきれいな人で、こういう女性が、客のまだ少ない
静かな店でエンヤを聴いているのはなかなかいいな、と思っている。
と言っても、誓って彼女お目当てで来ているというわけではない。
むしろマスターがいない時は、ネル・ドリップの濃いフレンチが
飲めないのが不満なくらいだ。

このあいだの年末の年越しは、この店で本を読んで過ごしていた。
近くに大きな神社があって、二年参りの客のために稼働する地下鉄
にあわせて深夜営業していたのだ。
もっとも普段からここは24:30まで開いているが。
部屋で一人テレビを見ているのもいやになってここへ来たのだが、
年越しの30分前ごろ、彼女がCDをエンヤに掛け替えた。
エンヤの曲の何かしら聖的なイメージを、仕事先で迎える越年の
ちょっとした儀式にしようと思ったのだろうか、
まだ神社から戻ってくる客もいない店の中には、僕しかいない。

はっきり覚えていないが、
どうせ僕はそのときホシノミチオを読んでいた。

ホシノミチオとエンヤといえば、
「タツムラジンつながり」と知れている。
一年半くらいまえ「地球交響曲第三番」を札幌市民会館でみた。
どういう態度で見ようかと考えていて、シニカルになるよりも先に感情に
任せようと思った。映画がはじまって80秒くらいで涙が出ていた。
この作戦は成功だったと思う。
終盤の追悼集会のシーンでは、ビル・フラーが訪れてきたところに爆笑し、
ボブ・サムが無表情な顏でタブーをカメラの前で話すと宣言するところでは
「言っちゃダメだ、ボ〜ブ!!」と突っ込みを入れている自分がいた。
タツムラジンというのは大した人物だ、と思った。
NHK時代につくった若書きのフィルム「18歳男子」などを見るにつけ、
とても彼が「ガイアおばさん」の教祖になるような善人じゃないことがわかる。
そういう大悪党だからこそ監督なんてできるのだろう。流石に胆力が違う。

高校時代にラブロックの本の邦訳が出て友人と田舎町の本屋で「すごい本だ」
と騒いでいたが高くて買えなかった。そのうちアーサー・ケストラーの
『ホロン革命』の方がすごいゾと、僕が言い出して結局読むことはなかった。
そんな80年代の現代思想キッズの冒険から早くも15年が経って、
ガイアといえば今やウルトラマンだ。
平成ウルトラマンはオタク的つくりで、「ティガ」「ダイナ」では実相寺昭雄
監督が1〜2本撮ったりもしている。いずれも歴史に残る怪作である。
先日ガイアを見ていたら、アグルというニヒリストの青いウルトラマンが登場
していて、人類は地球のバイ菌だから殺菌しなきゃいけない、と苦悶していた。

闇雲に人類の味方をする主人公のウルトラマンのネガとしてのダーク・ヒーロー
は「鉄腕アトム」のアトラスとか「ブラックジャック」のドクター・キリコとか、
系譜をたどればいろいろ出てくるのだろうが、「ガイア」は子供に見せるには
あまりにも息苦しい展開になっている。
地球の意志と人類の運命という巨大命題の議論を闘わせながらプロレスする二人
のウルトラマンというのはすごい。しかし変身前のお兄さん二人がゴチャゴチャ
喋りながらケンカする様には、「おまえらはシャアとアムロかあ?!」と
突っ込んでおくとしよう。
同種の苦しさは環境問題映画(!)「ガメラ3」にも濃厚に現れている。
地球、人類、文明のアポリア。21世紀世代の子供は前提からしてシンドそうだ。

・・・そんな話ではなかった。ホシノミチオの話。

あのころミチオのことが頭から離れなかった。
生前の星野道夫氏を知らないから、本の中の人として心の中ではミチオと呼んで
みることにしている。「星野道夫さん」と世間が呼ぶときの聖人化的なドライブ
のかかる感じが胸に痛い。
それは心の中のミチオを遠ざけて密殺してしまうような気がするのだ。
フィールドからのメッセージを書店でお金を払って消費するだけの立場の人間は、
もっともらしく彼の死の意味を受けとめたり、悼んだりする資格はない。
ロック・スターやグラビア・アイドルに対するように、
多少の自嘲的な諧謔もこめて、本に登場するアラスカのガイジンたちの真似をして
「ミチオ」と呼ぶのが、ねじれていて正しいみたいな気になっている。
そんな距離感の測りがたさを、ずっと持て余している。

アラスカへ行かずにミチオに出会える場所があった。
97年と98年のはじめ、冬の然別湖で開かれた氷のミュージアムの写真展だ。
湖畔に氷のブロックを積み上げてつくった大きなイグルーの中に、
寒冷地用特殊加工のパネル化された大きな写真がかなりの点数展示されている。
春には白い氷も溶けて、似ても似つかない風景になってしまう場所は、
生命の永遠と一瞬を詩にしたようなミチオの写真をみるのにハマリすぎ。
もちろん氷のミュージアムの中には、エンヤもかかっていた。

テレビドラマの終戦直後のヤミ市のシーンに、BGMで薄く「りんごのうた」が
欠かせないように、ミチオの行くところエンヤが自動演奏されるものらしい。
冬の予定に入れていたのに残念なことに今年の然別湖は開催が見送られたようだ。
全国のデパートで写真展が開かれていて、もうすぐ北海道にもやってくるという。
でもあのイグルーの静けさは再現できない。密閉式ヘッドフォンで大音量でエンヤ
をかけながら見に行くというのは、バカげていて「買い」かもしれない。
その前にすでに会場でかかっている、という恐れは充分にあるが。

もうひとつ気に入っていたのは、凍った湖の上に点々と飾られていた写真パネル。
雪の反射で目が眩んで絞り機能がおかしくなったり、離れたパネルまで歩く途中で
ちょっとしたブリザードに吹かれて近くのイグルーに避難したり・・・。
楽しみは、遠くのパネルに着いて少し弾んだ息で果敢に試みる「写真で一言」。
たとえばブリーチングする瞬間のザトウクジラの写真をみて瞬時に、
「ぷはーっ!苦しかったあ!!」と呟いて笑う、というような罰当たりな遊び。
場所が場所だけにハイになる。他にも笑える北の仲間達の写真がいっぱいなのだ。

生真面目な表情のミチオのセルフポートレイトが飾ってあれば、実はあれは
セルフタイマーで撮っていて、発表されたお気に入りの写真のフィルムの前後の
コマには、「立ち位置に移動するのが間に合わなくて慌てているミチオ」とか、
「もうOKかな、と思ってレンズを伺うミチオ」が写っている、などと冗談を思いつく。

今また不埒なことを思いついた。

先日仕事先で洞爺湖の湖畔の農家の若夫婦がイグルー作りをして楽しんでいる
ところにお邪魔したが、ほんの少しだけ氷のブロック作りを手伝った。
そんなに難しいものではない。来年の冬も然別湖の写真展がなかったら、
どこかで小さめのイグルーをつくって、寒冷地用特殊加工は無理としても、
一日だけもつようなカラーコピー貼り付け式即席パネルにお気に入りのアラスカを
切り取って並べる。入場料をとるわけでなし、著作権の問題もないだろう。
内輪の仲間で氷を積み上げて、プライベートなホシノミチオ展をやろうか。

もちろん、そこにエンヤが流れているのは言うまでもないことだ。


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