「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEXpastwill


2001年07月12日(木) 「ことば」と「いのち」

題:30話 煙の匂い30
画:トドマツの松毬
話:作者によるアイヌ語表記についての説明

おおよその発音を移してカタカナ表記する旨。
「母国語と母語が一致しないケースのことは考えもしない。
これもまた我々が抱く単一民族国家という幻想の一つの例である。」
という引用部分にコメントしておきます。
まず“母語”という術語は田中克彦さんの本なりを読んだことがないと
一般的には普及してないかもしれない。マザー・タングですね。

先日のお芝居「ペンテコスト」では、バルカンと思しき地域の国家で
古ナゴルノ語がいきなり現代に復活した奇妙さと、ある時代以後は
その言語を使うと死刑になったという設定が物語の重要な鍵になって
いました。
日本絡みで国家と言語の複雑な関係を感じたければ、川村湊先生の
とりわけ『海を渡った日本語 植民地の「国語」の時間』(青土社)
が参考になると思います。
中島敦が南洋庁で教科書をつくる仕事をしていたことなど興味深い
話がいろいろ出てきます。

近代国民国家において「国境」や「言語」は人工的に規定される、
というのは、翻弄された側には視えても枠の中の大多数にはなかなか
実感できないものです。

表記のことについては、アイヌ語や琉球語はおろか、津軽弁や鹿児島弁、
いっそ江戸っ子のべらんめぇ口調だって正確には移しとれないのでしょうが。
アイヌ語の「音声」を聴きたい方は、↓こちらの「FMピパウシ」の
ページへ。リアルプレーヤーで聴けます。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/skayano/menu.html

それにしても「単一民族国家という幻想」って現在でも一般的なのだろうか?
ディベートの手管として御大は「我々が抱く単一民族国家」という
言い回しをしているのだろうか。
でもそういう「幻想」の“生態”として、思いもかけないアナクロな地平
から平気で何度でも時代を隔てて復活してくる妖怪みたいなとこはありそう。
憑きものを払うには、強靱な理性と狂気めいた強記が有効である、というのは
僕の趣味にすぎるかもしれない(笑)

私見。
言葉に関するまったく異なる2方向のエクササイズが必要とされている。
その1。
これは「欧米では…」という物言いになるが、ディベートやスピーチ系の
トレーニングを若いうちから積むこと。
このことの必要性と有効さは結構「知識人」によって喧伝されている。
その時に大事なのは、以下のようなアプローチを併存させないと、
ディベート・チャンピオン上祐史浩氏のようなコトバ使いが生まれる
危険性が高いということ(笑)
その2。
その一方でコトバに身体的実感を伴わせるための演劇的アプローチ。
ヴォイス・トレーニングとか声のキャッチボールみたいなゲームとか、
ゼスチャーやオイリュトミー、それに歌や器楽にもつなげたい。
よく知らないがヒッポー・ファミリークラブさんなんかもメソッドを
持っていそうな、音からの外国語遊びなんかも入るだろう。
アニマル・セラピー(馬に遊んでもらったりするやつ?)とか、
あと最近ではホーミーなど、のどうたのワークショップなんかも
楽しそうだ。なんせコトバと声やフィジカルな要素との連関の強化。

こういうのを初等教育のカリキュラムに詰め込もうというのではなくて、
選択肢の中で一般的になって欲しいなというのが希望。
いい大人になってしまっても自己啓発セミナーに駆け込まずに、
これらのスキルを向上させる機会が増えると楽しいと思う。
以前アイロニカルに書いたけど、アブナイ人も少し減らせるかも(笑)

全然アイヌ語の話から離れたような感じもあるが、そうでもない。
言語に関して上の「その1」みたいな部分では、もはや英語公用語論
に味方してもいいんじゃないか、と思えるくらいの状況になっている。
一方「その2」方面の部分で、少数者が伝承してきたコトバがもつ
さまざまな自然観とか身体感覚とかを味わったり、それを交感したり、
そういうことがこれからもっと豊かになると面白いと思うのだ。
アイヌ語や琉球語のもつ季節感や生活感を味わってみること。
その眼は日本の古い世代の言葉に向けられてもいいいかもしれない。
明治の、江戸の、上代の人々の身体感覚にジャック・インしてみること。

あ、3行しか書かないつもりだったのに(;_:)
まぁ大事なテーマなので、良しとしませう。
それにしても僕の関心の持ち方ってどうしてこう「不謹慎」なんだろう(^^;
ポスト・サイバーパンク時代のマルチ・カルチュラルな言語観の持ち主
だからかもしれない(爆)
冗談はともかく実際は僕がコミュニケーション音痴だからなんだけど。


時風 |MAILHomePage