「静かな大地」を遠く離れて
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2001年06月15日(金) |
日本人とはダレダロウカ |
題:4話 煙の匂い4 画:塩 話:木の上から見た戦禍の町
今日は、塩・・・だよね?(^^; 妙にエレメンタルな挿画が続くのは何のフリなんでしょうかね。 この日録、もっとG−Who個人の身辺雑記の要素を強くしたい と思っているのですが、どうも滑り出しなせいか「原論」的な ムズカシイ話を消化不良に書いてて読みづらいことでしょう。 良くも悪くもこのペースでは続かないと思います(^^;
NHKで放送してるドラマ「お登勢」がたまたま『静かな大地』 の導入とめちゃめちゃシンクロ。ちゃんと見てはないけど。 今回この物語が淡路島から始まっているのは先に静内ありき、 というか御大ご自身の先祖が静内にいらしたからなんでしょう。
淡路島と言えば日本神話において神が最初に創った島、 いわば日本の根は淡路島にある、のである。 もう話の展開が読めた方もいるだろうけど(笑) 今日は「日本の根」問題を敷衍しておくことにしませう。
ことのはじめは、池澤御大が帯の宣伝文句を書かれた 比嘉康夫『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』(集英社新書)。 ま、宣伝文句だし、まんま引用しちゃおう。 池澤夏樹氏絶賛! 「日本の根は沖縄にある。 沖縄の根は久高島にある。 ぼくはこの本を百回読むだろう。 これは新書ではない。古典だ」 このコピーが何かもっと長い文章の部分抜粋なのか、 純粋にこれだけで書かれたものなのかはわからない。
村井紀『南島イデオロギーの発生』(太田出版)や 小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社)を読んだり、 それらの仕事が登場する思潮をそこはかとなくでも共有している 同時代の人ならば、このコピーの危うさ、キワドさを感じるはず。 そのへんをチクチク書いた僕の以前のBBSへのカキコミは、 この日録にも引用した。
雑誌『國文学』の村上龍特集での池澤×村上対談でも話題に出た 俊英・小熊英二氏について、あの分厚い著書を読まずにお手軽に アプローチするには、まずご自身のカッコいい写真も拝める↓ここ。 http://www.sfc.keio.ac.jp/~oguma/top.html あと最近文春文庫で出た村上龍対談集『存在の耐えがたきサルサ』 にも対談相手の一人として登場しているのでオススメ。
オキナワを日本の古俗が残る場所としてとらえて、 何かウェットな幻想の絡まる視線を注ぐのはよろしくない。 そんなことは御大こそ百も承知のことだろう。 あえて言い切ることを意図したとしか思えない。 そのへんは昨日勝手に紹介した斉藤一先生のサイトでの 『花を運ぶ妹』への重大な疑問とも関わるところだ。 “あえて言い切れば免罪”というのでは文化系のトンデモだ。
とはいえ「日本人」「日本」を単位にものごとを云々するのに いちいち引っかかってみせるだけなのも退屈でウザい態度ではある。 そのへんの気分を文化系クセ球の名手・井上章一氏が突いてくれた。 新刊『キリスト教と日本人』(講談社現代新書)の「はじめに」は、 学界のはやりで「日本人」というタームにくどくど言い訳めいた言説 を連ねていればとりあえずお利口に見えるとでも言うような若手の 学者への牽制球が効いていて面白い。井上氏と張り合えるくらいに オリジナリティーと芸がある学者の輩出を望む(無責任な読者 笑)
アンチ日本とか アンチ中央とかアンチ東京というのはまだ相対化が 足りない。反発は最も敵を利する屈服の一形態だったりする。 近代文明に対してもクールに相対化するには知恵がいる。 その知恵の実を獲得する冒険の旅、それが『静かな大地』を読むこと。 きっと『すばらしい新世界』よりも深く遠くへ行けるはず。 アラスカとオキナワの間で考え続けた「のっぴきならないこと」を 具体的なフィールドで物語化するには昔の北海道は最適だと思う。
僕の場合はそこにアメリカ東海岸の旅、ニューイングランドと ワシントンDCで考えたことがキレイな伏線となって効いてくると 思っている。それと高知。 ま、そんな話もおいおいしましょう。 しかし想定していたより既にいろいろ書き溜めてしまっているので そろそろ「公開」しないと、読んでくれる人は大変かもね(^^;
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