「静かな大地」を遠く離れて
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2001年06月07日(木) |
「日本の根っこ」vs「北の大地」 |
今日も過去の自分のBBSから切り貼り編集です(^^; お題は、オキナワ。というかオキナワへの視線。 それと「北の大地」というフレーズについて。
事のはじめは御大が書かれた比嘉康雄氏の新書の帯文句。 沖縄、そして久高島を「日本の根っこ」と称する文面があった。 これってそのまんま受け取るといわゆる「オリエンタリズム」というか 「帝国」の視線ではありますまいか?・・・ってなことを気にしつつ、 韜晦も含めてごちゃごちゃ書いていたのをまずは引用↓。
<BBS「すばらしい新世界」広場BBSへの過去のカキコミ> 比嘉氏の本の帯に御大が書いている惹句、 あれはフルテクストが別にあるのの一部なのか、 ああいうコピーとして書いたのか? まんま読むと足元をすくわれそうでありながら、 ひとつひとつの常套句を解きほぐして考えると きっとラディカルに強固な意志と態度が透けて見える、 ・・・ように計算したつもりなんだろうなと思いつつ、 なーんか低次元な誤解を招くような気がする。 そういうことを「もはや関係ない」と強がりたいがために わざと「骨太」ぶってみたりしてるのかなぁ? だとしたら男の子っぽくていいかも。 うまく使えそうなシチュエーションで真似しよっ(笑)
<またある日のカキコミ>
北海道へ行く前はもっと無邪気なオキナワ・ファン予備軍だったのに、 6年いてトウキョウへ戻って来たらなんだか南への心理的敷居が高い、 ・・・とここでも表明している僕だが、ゆえあって向こう1年くらいは オキナワ・シフト体制になる。 僕は「オキナワ料理店好き」だけど「オキナワ好き」かというと怪しい。 ぬいぐるみのクマちゃんが好きなのと野生動物の熊が好きなのの違い くらい遠い属性なのだろう、それって。 “野生のオキナワ”ってなんか中沢新一のエッセイの題名みたいだけど(^^; でもねぇ、案外とっかかりがなくて困るのよ、オキナワって。 よって僕の「オキナワ怖い」は「饅頭怖い」ではありません(笑)
<またある日のカキコミ>
『Switch』のデブリーフィング・インタビュー続いてますが、 オキナワのこと、来年の北海道連載のことなど触れてますね。 はやいとこ単行本にまとめて欲しいんですけど。 しかしインタビュー読み過ぎるのも問題集の解答ページを のぞきみるようで、いかがなものか、という話もありつつ。 で、インタビューの行われた場所が久高島、および見える場所と。 「日本の根っこ」発言の真意など、ちゃんと読めばわかるかも、 と思いつつ立ち読みもせず。 池上永一『レキオス』の方が、現在の僕のオキナワ経験値 からすると比嘉康夫さんの本より適当かと思いつつ読んでます。 あとオキナワへの距離感と同時代体験、ということでいえば、 福生小説『限りなく透明に近いブルー』再読してみたり。 ベトナム戦争のころの福生は濃かったようです。 今は繁華街も寂れ気味ですけど。 横田の向こうに沖縄があり、その向こうにベトナムがある、 そういう位相のオキナワも想い出しておく必要があるかと <引用終わり>
・・・で、生けるオキナワを「日本の根っこ」呼ばわりすることの 孕む、それこそ根の深いヤバさと抵抗感を僕は「北の大地」という 決まりフレーズにも酷く強く感じていて、自分自身が関与できる 範囲では絶対に使わないようにしている。 「北の大地」という決まりフレーズの持つハマリの良さと強さは 内地の人々や歴代の北海道人自身を呪縛、あるいは魅了している。 んがしかし、その幻想の生成の仕方に無自覚でいることには 住んでいたころから耐えられなかった。うむ。
「静かな大地」を読むことを通じて自分自身の北海道体験を相対化 しながら、「北の大地」にくくられることのない、なおかつリアル で充分にロマンティックな世界像を見出せたらいいなぁと思っている。 つまるところコトバとして疲弊した「紋切り型」をはみ出して、 未だスウィート・スポットに入らざる美意識を共同幻想の中に 汲み入れる・・・そんな作業かもしれない。 イチャモンが言いたいのではなく「欲深い」のだろう。 「物語」を読むことのギリギリの快楽を求めて。
・・・なんかこのテーマを「わかってもらう」ためには、かなりの 例を挙げたり笑いどころを作ったりしないと無理なんだろうなぁ、 と思いつつ、ひとまず予告篇的に提示だけしておきます。 腰砕けですみません(^^; 「日記」というか雑文というのもBBSとはまた違う意味で 「言い放つ」のが難しいメディアですなぁ、意外と。 まぁ連載が始まれば、日々の話題の焦点が提供されるわけで こういうあまりに総論めいたことで話が拡散してしまうことも なくなるでしょう。ま、て〜げ〜に行きます♪
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