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2001年07月10日(火) 文化セミナー「芝居における笑いについて」

講師:別役実先生

◎タバコをやめられない…やめると、タバコに負けたような気がするのでやめられない。
タバコに勝った、と思えるような方法があれば、やめられるかもしれない。
例えば、タバコが逃げるとか。

いきなり、発想が面白い…

◎喜劇が、…というより、喜劇と銘打たなくても「笑い」がはやっている。
最近の傾向は、3分に一回は笑いがないと客が付かない、という人もいる。

◎「笑い」=芝居を展開する上での必要条件。

“笑い”自体が意味を持っているわけではなく、舞台と客席が呼応し一体化するきっかけとして“笑い”が求められる。

だからこそ、役者は“笑い”を狙う。
客は、滑った“笑い”に敏感になる。そこで“違和感”を感じると、後を引く。

つまり、それも舞台と客席の一体感?

◎コント

昔は、コントと芝居は別物と考えられていた。「コント種」=芝居にはならない。

今では、不条理芝居と呼ばれるものは「コント種」が元になっている。

コントの勉強をすることで、芝居の手触り(=客を笑わせる。反応)を学ぶことが出来る。

◎悲劇と喜劇

かつては、悲劇の方が格が上だった。役者も、文化的評価も。

「笑い」そのものが、あまり良い評価をされなかった時代。
例えば、男の子がそんなに笑うものではない、とか。

花登筺も、食事中笑ってはいけない、としつけられたという。

かどたいさむ(?)も『外国拝見』という著書で、「チャップリンの芝居を観て、人々は良く笑っているが、翻って日本人はあまり笑わない」と戦後間もない日本人の様子を記している。

敢えて笑うときの日本人の笑い=古拙笑い(アルカイックスマイル、仏像とか…)

小野田さんが日本に帰ってきた姿を見て、笑わない日本人の顔(筋肉とか骨格とか…)を感じた。と、いうことは、そのころ既に、日本人はよく笑っていた。
祖父の顔を思い出した。私の祖父の笑った顔を思い出せない、というより、見たことがないような気がする…

60年代はまだ悲劇の時代。60年代末、「真田風雲録」が喜劇的な作品で転換のきざし。
70,80年代から、喜劇の時代が始まった。つかこうへい「熱海殺人事件」

NHKのタレントの好感度調査も、この傾向を示している。かつての好感度上位のタレントは、長谷川一夫などいわゆる「二枚目」。今はさんまやタモリなどのお笑いタレント(=三枚目)が上位に入る。

最近、「二枚目」を演じられる若者が少ない。=気取り続けることが出来ない。気取りの後、ずっこけて笑いを取らないと、気取りの正当性を示せない。喜劇的なドラマツルギーでしか人間を解説できない。

◎「笑い」の二律背反性

(1)精神の自由を促す。自由な批評性を持つ。
(2)人生の深刻なドラマから身を引いてしまう。正々堂々と立ち向かう勇気が失われてしまう。逃避的。

◎「笑い」の質

外国の喜劇=社会風刺 政治風刺

笑っただけで価値のある笑い、深いところに根ざした笑い、説明できない笑い。

人は嘘をつくと「騙したい、隠したい」「ばらしたい」という二つの思いに捕らわれ、そのバランスが難しい。
上手く嘘をつくには「ポーカーフェイス」が必要。
良い嘘の状態は、その虚構が、いかにも本当に存在するように思わせることが出来ること。いかにも嘘臭くて信じてしまう事。
上手くない状態は、正当化しようとして、しつこく説明してしまったり、悪ふざけになってしまうこと。
作家は「精神のポーカーフェイス」が出来ないといけない。
(その練習?として、『道具づくし』などの作品が役に立った)

役者が演じることにも、同じ事が言える。
平然とおかしな事を言ったり演じたりするには、精神のポーカーフェイスをトレーニングしなくてはならない。

観客側も「精神のポーカーフェイス」を鍛えなくてはならない。
自分の感性で感じるために。
確かに、自分も含め、面白くも無いのに笑うことが最近多い。何でおかしいのか、何が面白いのか、分からないけど、笑わないと損、みたいな気がすることも。

虚構の自分を確かめる事によって、深い笑い、浅い笑いの区別がつくようになる。
文化遺産として価値のある笑いにも気づけるようになる。

情報化社会=付和雷同しやすい。

かつては、共に泣くことによって人間性を共有し、共鳴することが出来た。
これからは、「笑い」がその役目?


◎関西と「笑い」

笑いの発信地は関西。川柳、古典落語の名作…

◎昔話の脚色

幼児体験のデフォルメ、であるべきだが、最近は幼児体験の中に昔話が存在しないことも多いので、難しい面がある。

古形を取り戻すことで、別の見方、見せ方が見つかる?
単純に現代に置き換えるなどは、あまり好ましくない…


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全体的に、分かりやすい話だった。理解、というより「ああ、わかる!」という感覚。

個人的に、ただ「笑える」だけというのは、好きでは無いのです。
例えば、ストーリーとしておかしい、くすぐられる「笑い」はもちろん問題ないのですが、動きのおかしさ、単純に変な滑稽な姿だけで笑わせる「笑い」には疑問を感じてしまいます。
人の失敗や無様さを笑っているような後味の悪さを感じます。
じゃあ、どんな笑いが良いのか。
その辺りのことを教わることが出来たような気がします。

もっと色んな話を聞かせていただきたい!という欲張りな気持ちになったのは、私だけでは無いはず。
お名前を高校時代から存じ上げていて、密かに作品にも憧れていた私にとっては、非常に嬉しい時間でした。


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