台風、そして震災による被害に多くの国民が苦しんでいる。
言うまでもなくこれらの人々は、何も自分で好きこのんで被害にあったわけでなし、
つまり彼らに全く責任はない。
従って行政がその救助と援助、復旧に力を尽くすのは当然であろう。
さて。
そんなさ中に、また馬鹿者がイラクで人質になった。
今回の人質はプロ市民ではなく一介の旅行者であるらしい。
しかしあれほど危険だと言われ、現に人質事件も既にあったにもかかわらず
まさに自ら死地に出向いて行ったわけで、その軽薄さは被災民の苦難とは比ぶべくもない。
ただいずれにしろ政府には国民の生命財産を守る義務があるわけだが・・・
27年前の「ダッカ事件」の時、
「人命は地球より重い」と称して時の首相はテロリストの言いなりになった。
しかしこの時は要求が身代金と刑事犯の釈放という程度のものだったので、
実際はその言葉の重みとは裏腹に気軽く応じたのである。
(その気軽さのせいで、あとで他国が大迷惑したわけだが)。
一方今回は自衛隊撤退という、外交政策変更を要求するもの。
この程度は「人命の重み」に比べたら大したことないことなのかどうかは
思想信条によって異なる。
では、いかなるものも「人命の重み」とは釣り合わないのだろうか。
例えば「日本はイスラム教に改宗しなければ人質を殺害する」と要求されて
「はいわかりました」とはなるまい。
「息子の命のため日本人はみんなイスラム教に改宗して下さい」
と親は言うかどうか。
言っても誰にも相手にされまい。
結局、「人命」は何ものにも替え難いのではなく、
その重みにも限度があるということである。
確かに「人命は重い」。
が、しかしその「人命の重さ」は、その重みを尊重するシステムの下でのみ初めて保証される。
「人命の重み」が普遍的なものでないことは、現に要求が通らなければ人質の首を刎ねる
と言っているヤツバラがいることで明かであろう。
つまり「人命の重み」より「人命の重み」を保証するシステムを守ることの方が重要なのである。