Espressoを飲みながら

2001年01月12日(金) 浦島太郎

 ある時からずっと時間が止まったままになっているような感じがしている。
とはいえ自分の外側で起こっている出来事についてはそれなりにきちんと認識している
つもりだし、様々な生活の変化は目紛しく、大きな規模で起こっているものだ。

 だからもっと時間の変化を一つの感覚と言うか、体感として感じていても
いいはずなのに。

 なぜか時間が経っているということが実感できない。
時間はずっと止まったままで、時折周りの人やマスメディア等によって
その変化を告げられるというだけのよう。

 例えば、ハイペースで仕事して、疲れてきたからそろそろこれくらいは
時間がたっているだろうと思って時計を見るとか、それくらいの短い単位の
時間の感覚はあるのだけれども、何ヶ月、何年、といった長い単位の時間は
全然実感することができない。

一日という時間の長さでいろんな事が起こる。引っこ抜かれたり、食べられたり、
という訳ではないけれども(筆者はピクミンではないので)。
けれども、一旦夜になって眠りについてしまえば、それは全て記憶の中のこと。
昨日のことも、10年前に起きたことも、20年前に起きたことも、何の
違いも無いように感じられる。

 体験は、一定の時間が経つと、永遠というアルバムの中の一枚の写真と
して綺麗に保存されてしまうかのようだ。そしてその写真は「忘却」に
よっていとも簡単に破壊されてしまう。

 「現実」はその原形をとどめないほどに変わり続け、「記憶」のみが
過去の証人となる。しかしその証人も「忘却」という容赦ない死刑執行人
により日々殺され続ける。長い時間の中で見るならば、結果は単純。

 「とどまるものは、何も無い。」

 「とどまることも、変化することもないそれを除いては。」

 


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