(仮)耽奇館主人の日記
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2006年02月21日(火) |
耳の奥に潜むもの、あるいは天を仰ぐために。 |
例の、聴覚障害者のコミュニケーションサイトでは何の進展もないが、書き込みという形で「公開」の場に行くのではなく、直接メールすることで「非公開」の場で私とやりとりをする若い聴覚障害者たちがいる。 私の考えに賛同してくれるもの、そして、これがやっぱり圧倒的に多いのだが、反対するもの。 反対するものたちは、みんな口をそろえて言う。
補聴器をつけても全く聴こえないものはどうすればいいんですか?無駄な努力をあえてしろと?
私の、補聴器をつければ普通の人と会話が出来るところを「恵まれた」ものとして指摘しているのだ。 自分たちは「恵まれていない」から、聾文化や手話に頼るしかないのだと。 私はこの、ほんとうに、障害者特有の卑屈な根性が大嫌いだ。 それならばだ、 私のところにいる、補聴器をつけても全く聴こえない、重度聴覚障害者の四人組のインダストリアル・ノイズ・ミュージックのユニットは無駄な努力を重ねているのだろうか? 皮膚感覚を磨きに磨いて、音感を高めて、楽器を操ろうとしているその姿は、決して、聾文化のためにやっているのではない。 自分自身のためにやってるのだ。 おのれの、生々しい血反吐を吐くために。 しかもだ、 あたたかい家庭に恵まれていない聴覚障害者たちもいるのだ。 母子家庭で、病気で働けなくなった母親と、自分自身を養うために(隔月払いの障害年金だけでは食えないため)、売春をしている女子高生だっているし、家族との軋みで、ヤクザなどの裏街道に身を沈めてしまった人もいる。 そういうアウトサイダーたちを前に、よくも、自分を「恵まれていない」などと言えたものだ。 頑張りさえすれば、健常者以上にまっとうにやっていけるものを、わざわざ放棄するものたちの気がしれねえよ、全く。 で、そんなに、差別という言葉に敏感なら、聞こえないふりをするんじゃなくて、聞いても気にしないだけの実力を磨け。
・・・・・・
あまりにも頭にきたので、昔の聾学校の先生たちに電話をかけまくった。 そのうち、一人が現状を説明してくれた。 今の先生たちは、「最初」から、手話だけで子供たちに接するのだそうである。 それを聞いた瞬間、私は手話こそが元凶だと悟った。 手話はあくまでも、サポートでしかない。 それを一番最初に持ってくるとは何事か、手話こそが世界とのコミュニケーションの基本になってしまうだろ。 世界で一番最初にあるべきものは、耳が聞こえようと、聞こえなかろうと、「音声」しか考えられない。 その証拠に、赤ん坊は、耳の良し悪しを問わず、叫び声をあげながらこの世へ出てくる。 「そんな先生たちは、今すぐクビにして下さい!社会にとって害悪ですらあります」 手話はかえって、子供たちの目を塞ぐ結果になる。 まず現実を教えなければ。 世界は音に満ち満ちていることを教えた上で、自分たちも音声と触れ合うために、手話から少しずつ努力を積み重ねる必要性を教える。 そのために、手話はサポートとしてあるのではなかったか。 それが日本手話だの、聾文化だのに膨れ上がっただと? 笑っちまうぜ。 まあ、引きこもりてえやつは、差別されることにいつまでもビクビクしてな。 私と、私と同じくらい、あるいはそれ以上に努力をしているものたちは、ちゃんと空を見上げて暮らしている。 空の向こうに、光り輝く天を仰ぐために。 今日はここまで。
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