(仮)耽奇館主人の日記
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2006年02月20日(月) |
耳の奥に潜むもののこと。 |
最近、さる聴覚障害者のコミュニケーションサイトにて、私が以前書き込みした、「聴覚障害者はバカにされるのが当たり前だ、それなら、バカにされないよう何かで頑張ればいい」、「努力すればハンデは乗り越えられる」というのに、反論がきた。 その反論というのが、ハンデを持っていれば努力は当然と考えている私から見て、ほんとうに耳を疑うほどの代物であった。 まず、聾唖者をいかにもかわいそうな存在であるという差別感を感じると言ってきた。 これは分かる。実際、そうだからだ。 ところが、続けて、 聾唖者には聾文化というものがあり、日本手話というものがあって、健常者と対等の立場にある。 さらに、 それなのに、なぜ、聴者以上に努力する必要があるのか、と。
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まあ、その反論を初めて読んでみた時の、私の表情を想像してみたまえ。 絶句、呆然、驚倒、その他もろもろの感情を表情で表現した後、顔色がみるみる、怒りで真っ赤になるのを目撃出来たことだろう。 何たることか、現実逃避もいいとこである。 二日間、一生懸命、言葉を選んで(私の性格上、相手を言葉だけで毒殺しかねない激しい表現になることは目に見えていたので)、なるべく穏やかに、ていねいに、反論への反論を書き込んだ。 差別されるのは、私自身も経験してきた、「現実」なのだし、その現実の世の中で生き抜くためには、努力以外に何があるんですか、 あなたの考えがまかりとおるなら、ヘレン・ケラーはなぜ努力しなければならなかったのか? まあ、こんな要点で、くどくどと述べたのだが、その後何も書き込まれていない。 代わりに、誰かが、両方とも言ってることが正しい、否定的な発言をしてもしょうがない、仲良くやっていきましょうと締めていた。 そこで、ああ、やっぱり、今の若い障害者はコロニー的な考え方に傾倒しているのもあるんだなと、私的に、ひどくがっかりした。 コロニー的考え方。 以前、日記にも書いたことがあるが、聴覚障害者だけの社会をどこかの土地に建設して、健常者とは一切かかわりを持たない生活を送るという考え方である。 重度障害者の場合は、すでに介護つきシステムという形で、共同生活施設が愛知に出来ているが、健常者も一緒に働いているので、厳密には閉鎖的、排他的ではない。
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最近の若者は、生ぬるくなった上、どうしようもない甘ちゃんだが、それに比例するように、若い障害者もひどい甘ったれになったものだ。 障害年金がもらえる、 手話があればコミュニケーションに困らない、 この二つで、聴覚障害者はほんとうに精神的に堕落した。 それはつまり、自らを「聴覚障害者」という枠に閉じ込めて、あまりにも閉じ込めるあまり、差別という言葉そのものにひどく敏感だし、また、聾唖者であることそのものに、得体の知れない「誇り」を持つという不健全さに走ってしまったということなのである。 そう、全く不健全。 人間というものは、もっと生々しいものなのだ。 耳が悪くても、健常者並に、あるいはそれ以上に、「何か」に身を焦がすのである。 私はそういう瞬間を、いつも、「耳の奥に潜むものが這い出てきた」と表現していた。 だからこそ、私は実際につきあっている人から見ても分かるように、生々しい感情、欲望に満ち満ちている。 人間であることに、ほんとうに忠実だからだ。 それこそ、健全なのではないだろうか? 今日はここまで。
追記。 コミュニケーションサイトの主さんから話を聞いたところ、反論した人は、ヘレン・ケラーその人を批判する自論を展開したことがあるそうである。 「奇跡の人」を否定するとは全くいい度胸じゃないか。その度胸をいい方向に活かして欲しいもんだよ、全く。
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