(仮)耽奇館主人の日記
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2005年12月30日(金) |
ドグラ・マグラを思い出しながら。 |
剛さんの依頼で、柴田秀司さんとお会いした。 彼の血縁者で、映画「ドグラ・マグラ」の制作をしていた人である。 私にとって、映画「ドグラ・マグラ」と言えば。 真剣に映画への道を志したきっかけとなった、人生のターニングポイントとなった作品である。 はっきり言って、原作の崇拝者としては、松本俊夫監督の映画が悔しかったからだ。 オレならこう撮る! しかし、今のオレではまだまだだ、しっかり勉強して力を蓄えねば! そう思って、早や幾年。 それが今日、よもや、映画「ドグラ・マグラ」そのものの生き証人たる柴田秀司さんと出会うとは。 映画の話ではなく、ちょっとしたきっかけでお会いしたのだが、この縁の奇怪ぶりは、私の守護霊でも予想はつかなかったであろう。 思い出す・・・ 今は亡きミステリの評論家の中島河太郎先生に映画版の感想を手紙に書いて送ったこと。 桂枝雀師匠の笑い方が好きになって、枝雀落語の愛好家になったこと。 人形作家のホリ・ヒロシを初めて知ったこと。 その他もろもろ。 この映画作品を観て、私が一番最初に行ったことは、「足りないシーン」を頭の中で補って、付け足したことだ。 松本俊夫監督のそれは、あまりにもお坊ちゃま的で、夢野久作特有の泥臭さが足りなかったので、匂い立つような泥臭さをまんべんなくそこら中に塗りたくったのだ。 お話を伺って、一番ショックだったのは、最初はあのアホダラ経のシーンが予定されていなかったことである。 アホダラ経なくして、何のドグラ・マグラなのか。 それで松本俊夫監督のねらいがだんだん分かったような気がした。 恐らく、彼はあくまでもビジュアル的に、ドグラ・マグラを料理したかったのではないだろうか。 最後の、松田洋治演じる一郎が、迷宮のような廃墟を駆けるシーンなんかは、いかにも松本俊夫的だ。 しかし、ドグラ・マグラの真髄とは、泥臭さの中から沸き起こるような、猥雑なまでの言葉の「祭り」である。 ビジュアルよりも、言葉の紡ぎ出す、過剰なまでのパワフルさ。 あの横溝正史も、晩年、ドグラ・マグラを読み返して、危うく首をくくりかけたと告白しているくらいなのだ。 私も実は、中学一年の時に初めて読破した際、本当に狂ったかと思ったくらい、「あてられてしまった」。 夏の時の感覚を思い出すがいい。 真っ白に輝く陽光に照らされて、地べたから土の濃い匂いとともに、地霊のような熱気が陽炎となってゆらめき、たちのぼる。 私にとって、ドグラ・マグラはまさしくそんな感じであった。 ああいう世界を映画化するということ自体、無謀な冒険で、観る前は非常に不安だったわけだが、松本俊夫監督が「捨石」となってくれたおかげで、私は色々なものを学べた。 柴田秀司さんも、やりたかったことは色々あったという。 でも当時は実現出来なかった。 ならば、これから「完全版」を作ればいいのだ。 私は、ドグラ・マグラと並ぶ奇書とうたわれる小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」をシナリオにおこした自信があるし、映画の骨格となる、脚本づくりにおいては誰にも負けない、狂気じみた「宝物」を頭に抱え持っている。 撮るならば、徹底的にやる。 それは今、私がかかわっている映画作品や他の企画の段階においても貫いている、狂気じみた「宝物」への忠誠心なのだ。 即ち、私自身のプライドである。 映画に対する愛情ゆえのプライド。 このように、あらためて、「映画愛」を柴田秀司さんとお互い確かめ合った、実に熱い夜だった。 今日はここまで。
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