(仮)耽奇館主人の日記
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2005年05月04日(水) Fight the Death, Fight the Life.

昨日は、参拝に来た檀家たちを前に、副住職のミスラ君を紹介しつつ、「説法」をした。
住職の従弟の「説法」は、浄土真宗の宗派に沿った、教科書どおりのマニュアル的な内容だが、代理を務める私の「説法」は、しばしばとんでもない方向へ脱線するが、全く自由な内容である。
今回は、「理想的な死に方と、理想的な生き方について」。
・・・あなた方は、もし死ぬとしたら、どんな風に死にたいですか?なるべくなら、楽に死にたい?痛みもなく、苦しみもなく、眠るように?突然、事故にあって即死という死に方をするように?
最近、練炭で自殺するのが流行ってますよね、楽に死ねるとかで。あれはねぇ、私から見たら、自殺じゃありません。眠るように死ぬんじゃあ、ただのワープです。この世からあの世へのね。そして、死というものは、徹底的に個人的なものであるはずなのに、集団でやるわけでしょう。つまり、死そのもの、自分自身から「逃避」するわけですよ。これじゃ、ほんとに死んだことにはなりません。あの世でもまた「逃避」し続けるでしょう。
では、ほんとの自殺とは何か?最近のニュースなんですけど、どこかの結婚式会場の駐車場で若い女性が、焼死を遂げたそうです。ガソリンだか灯油だかをかぶってね。色々想像できるじゃありませんか、誰かの結婚をはかなんで、自殺したんだろうってね。で、わざわざ、苦しい死に方を選ぶことで、練炭自殺とどう違ってくるのか?自分自身以上の、自分自身になれる点ですよ。ぶっちゃけ、「化けて出る」ことが出来るんですよね。
死んだ本人はともかく、少なくとも、誰かの心に原始的な恐怖感を植えつけることには成功します。
私は、この、泥臭い日本人的な自殺の考え方に、別の意味で賛成します。
どうせ死ぬなら。
絶対に、楽な死に方はしないことです。
ドロドロに、メチャクチャに、苦しみ悶えるような、凄惨な死に方であるべきです。
最期の瞬間まで、死にゆく感覚を味わうためです。
そうすることで、おのれの生命力を贅沢に愉しむのです。
つまり、自分自身と真っ向から向き合って、血が枯れるまで闘い続けるのです。
あの世に、そのまま歩いてワープするよりは、「逆立ち」して血みどろの坂道を下った方が・・・より、自分らしくなれるのです。
まあ、何も、自殺に限らず、病気で苦しむとかね、ガンとか肝炎とか。
我が国じゃ認められてませんけど、これまた絶対に、安楽死なんて選ばないことです。
最期の瞬間まで、病気と闘うべきです。
自分らしく死ぬために。
それゆえに、死とは、徹底的に個人的なものなのです。
苦しんで、苦しみぬいて死ぬことで、初めて、自分自身を理解することが出来る・・・。
二十歳前は、切腹こそが理想的な死に方だと考えて、二十歳になった記念に、ご先祖様の短刀で横っ腹を撫で切って、へその下に突き立てたんですよ。ものすごく痛くて、苦しかったですね。介錯人いなかったし。
で、刃をさらに深く突き入れようとしたところで、電話が鳴って、出たら、サカキが生まれたって連絡があったんですよ。ええ、私の娘です。去年のお盆に境内で木刀振り回してたのがいたでしょ?あれです。
それで、私は、切腹よりももっと苦しい死に方を見つけました。
それは、自分自身を生き続けることなんです。
死ぬ瞬間まで生き続けること以上に、苦しいことってあるでしょうか?
いい思い出もあるけど、いやな思い出も抱えたままですからね。
それで、私はどてっ腹に短刀を突き刺したまま、病院に行って、今日までこうしているわけですよ。

生きるために死ぬ。
死ぬために生きる。

この両極を同時に抱え続けることが、理想といえるんじゃないですかね。
私はほんとにそう思います。

ほんとうは、もっと長く話していたのだが、ここでは省略して、まとめてみた。
従って、私は、リストカットなどの自傷癖を否定しない。
おのれの身体を実際に傷つけて初めて、自分を理解する方法もあるのだ。
ただし、自分が周囲から異常として扱われるからといって、異常さをわざわざ膨らます必要はない。
また、誰かに自分を理解してくれと求める必要はない。
結局、自分を甘やかす結果になるからだ。
常に、自分自身と闘え。

・・・・・・

お寺の門の掲示板に、標語を不定期で書いているのだが、今回は、ミスラ君と二人で考えたものを掲げた。

Fight the Death, Fight the Life.

いつも、縦書きで筆文字なのだが、今回に限って、横書きで書いた。筆を取ったのはミスラ君である。

死と闘え、生と闘え。

今日はここまで。


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