「あの人に、恨みつらみはあります。せやけど、恩も情けもありますねん。さんざ可愛がってもろたし、夢も見させてもろたし。そないなことまで一切合財のうなってしもたら申し訳ない思うのやけど」
坊さんはきっぱりと言うてくれはった。 「しがらみや」、て。
「しがらみや。ええか、それはしがらみいうもんや。人生はいきなあかん。極楽往生して、仏さんのおみあしに傅くまでな、一所懸命に生きなならん。恨みつらみは水に流し、恩や情けを岩に刻んで生きよなぞというのんは、人生をなめくさってる人間の言うこっちゃ。生きるいうことは、そないに甘いもんやない。恨みつらみも、恩も情けも、この先の長い人生の道を踏み惑わせる種になることに変わりはないんやで。人はみな、やや子のようにまっさらな気持ちで、たしかな一歩を踏まなあかん。その一歩一歩が人生や。恨みつらみも愛すればゆえ、恩も情けも愛するがゆえ、片っぽを流してもう片っぽをうまくせき止めるような都合のええしがらみなんぞ、あるもんかいな」
浅田次郎著 「月下の恋人」より忘れじの宿の一説です。
深い。
|