キリスト教における「予定説」の本質。資本主義の精神を生み出すに当たって最も 決定的な役割を果たしたもの。ちょっと引用させていただきますと、
”「神は己が栄光を顕わさんとして、世界の礎が据えられる前に、自らの決意に よってある人々を永遠の生命に預定し、他の人々を永遠の死滅に預定し給うた。」 ある人々の選ばれたのは、決して彼らの「信仰、あるいは善行為、あるいはその他 被造物のもついかなるものも条件あるいは原因とし」てではなく、すべて神の 「自由な恩恵と愛」に基づくものである。(大塚久雄『宗教改革と近代社会』 みすず書房 71頁)”
恐るべき説教です。 自分は救われる側なのか、救われない側なのか、そのいずれかを知りたくても 人間の知力ではそれを知ることができない。ここにカルバンの一言が救いとなった。
「神に救われる予定の人は、そのことを証明するように振舞うであろう」
キリスト教では何が正しいのかを言っていませんし、正しいことをしたからといって 神が救うとも書いていません。ですが、神が救うと予定した人は何が正しいかを 教えられなくても自分では分かるはずであって、絶対にそれを行うはずであるという 気持ちになる、と。ここにはカトリックにある懺悔は存在しません。
ここから目的合理的精神が生まれました。 伝統主義的エトス(行動様式)の変換が行なわれたのです。 目的合理的とは、ある目的を達成するために全ての手段を整合するという意味。 伝統主義ではあり得なかった利潤の最大がここに成立できるようになったのです。 伝統だとかしきたりだとか掟だとか、そんなことには構っていられなくなったのです。
これが資本主義の精神です。何が何でも効用を最大化すると考えるのです。 資本主義的人間というのは、伝統主義を打破するという意味で、ものすごく特殊な 人間であると言う人もいます。この目的合理性の意識こそが中産的生産者層に 属する人々を伝統主義とそれにまつわる様々な非合理性から離脱させ、近代の 合理的産業経営の建設に適合的な思想と行動の様式を身に付けさせる方向に作用 したと言えるということです。
資本主義の根源を調べてみると、キリスト教のエトスの転換にぶち当たる。 誤解を恐れずに申しますと、カトリックの教えをプロテスタントが追い払ったから こそ、資本主義が作られました。伝統や儀式を絶対的なものとしたカトリックを 否定し、本来のキリスト教に立ち戻らせた、この「予定説」こそが資本主義の根源 であると言えるでしょう。そういう意味では、本来の資本主義は日本には馴染んで いないかもしれません。
とはいえ、仏教はもはや「葬式仏教」に落ちぶれてしまった感がありますから、 そのあたりは現在の方が臨機応変に対応できるのかもしれません。そもそも仏教は 日本に存在していた宗教ではありませんしね。聖徳太子まで遡る歴史はあるとはいえ 脈々と受け継がれてきたのは「神」の存在。つまり天皇の存在です。アメリカは この「神」の存在を否定しなかった。日本を再建する際に、国民の心の拠り所と 考えたからでしょう。現人神ではあるけど、神には違いない。日本の歴史をよく 知り尽くしていたと言ってもいいでしょう。
ただ、これが行き過ぎると原理主義に陥ってしまうわけで、日本では右翼になって しまうわけで、民主主義の世の中では融合できません。資本主義と民主主義は必ず しも一致しないんです。これがまた。
日本の場合でいうと、やはり戦後は「一生懸命に働くこと」がひとつのエトスと なっていたんでしょう。家族のために汗をかいて働くことが、たとえ家族を犠牲に したとしても美徳とされていたんでしょう。生活の向上のためにね。
さて、生活が向上した今となっては、何が今の日本にとってエトスとなるのか。 少なくとも自分の中にはそんなものないんですよ。おほほ。
はい。今日は曇りときどき晴れ。(東京地方)
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