しむちゃんのつれづれ日記
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2002年08月24日(土) 発展的学習

文部科学省が示す新学習指導要領の枠にとらわれない、「できる」子をさらに
伸ばす発展的な学習をする際の事例集を作成したそうですね。

学習指導要領から新学習指導要領に移行することで3割の学習内容が削減されて
おりますが、これはその一部復活となるもの。子供たちの学力低下が懸念されて
いることを受けたものとされておりますが、たとえば

◆3けたx3けたの掛け算(小四→小三に早める)
◆少数の割り算(下一桁→下二桁まで増やす)
◆台形面積の公式復活
◆多角形の内角の和(新しい内容)
◆分数の割り算の意味を知る

これらの「発展的」と言われる学習に取り組んだ子供の評価は成績評定に反映
させないとしております。つまりあくまで補足的な学習です。

そもそも「ゆとり」の時間の観念に問題がある新学習指導要領なのですが、世の
批判に対応する策を考えたのでしょうが、何で今ごろ?ってな感じです。
対応が遅すぎます。しかも一部復活とは余りに中途半端。

さらには評定に反映させないとは、ある意味では塾の一端を担うようなことに
なりそうです。そもそも「できる」子を対象とすること自体が学力低下を懸念
するという総体的なことに対応したもので無いことが問題です。これは表現が
悪い。「やる気のある」子を対象とするならばまだいいものを。
文部科学省がこんなところで差別化を図る気がしれない。底上げでないから。

一部では教師側の負担が増えると言う懸念が言われておりますが、そもそも
教えていた内容を復活させたに過ぎない。教師側の負担が増えるというのなら、
「ゆとり」とは教師側に対するものだったのかと疑いたくなる。
それこそ教師側の学力低下というか質の低下です。これを認めた当時の文部省の
質の低下であり、それを継続させている現在の文部科学省の怠慢だと言わざるを
えません。

教育という以上は「ある」者から「ない」者への知識の伝授が含まれているはず
ですが(人的な育成はいわずもがな)、その「ある」方の質が良くなければ、
当然ながら「ない」者の質も良くならない。これじゃあ税金から支払われている
教員への給料がどうだという議論になりかねない。商売も同じことで、「ない」
人に「ある」人へ提供することでカネを取る。それがモノであったり情報であった
り知識の供与であったり公的なサービスであったり。そう言う意味では教育は
知識の供与の一端を担っているのですかられっきとした商売。私学は企業ですが
公立はお役所。市場の論理が通用しないところ。世間の評価は進学率や就職率。
教えていることについては目に触れないので内部チェックしかない。狭い世界。
経済的な論理が通用しないからこそ「聖職」なんでしょうけど。

一方、現場の先生方は、特に若手を中心に「やる気」のある先生方は、どうしたら
子供たちの学力が向上するか、進学率が向上するかということに対して貪欲に研究
していらっしゃるようです。かつてのような「聖職」であるがためにそれに
乗っかって勘違いをしていた頃とは違って、真面目に考えていらっしゃる方が
増えたと聞きます。(同級生の教師いわく)

でもそれはやはり○○模試で自分のクラスは××先生のクラスよりも平均点で
勝ったとか負けたとか言っているようです。それをはげみに同僚との競争をして
いることで、授業の質を向上させていると言います。
その「質」が文部科学省の求める授業の質とベクトルが合っているかが問題
なのです。どうも自分にはかつてのように合っていないように思える。

文部科学省は人間性を重視、現場は相変わらず進学率を重視。

理想は文部科学省が求める方向でしょう。アメリカを見れば明白。
入学しやすく卒業しにくいという事実はありますが、その選考の方法に日本には
ない特徴があります。米国在住の作家である冷泉彰彦氏の言葉を借りると、

”日本の入試のように「客観的」な合否基準というのは実はないのです。むしろ
合否の基準というのはなくて、その年の入学許可者を「どんな集団にするのか」
を事務室全体で話し合って作り上げてゆく、そんなプロセスになるのだそうです。
プリンストンの場合ではないのですが、早期入学許可の時点では「その大学の
伝統を堅持しそうな人物」を優先に取り、その後の3月の時点では「伝統に反して
でも革新をもたらしてくれそうな」人物を混ぜるなど、面倒な工夫をするのだそう
です。

何故、そんな手間をかけるのかというと、その選抜自体が、大学にとっては死命
を制するからです。入学して講義の中でのディスカッションをどう盛り上げて
くれるのか、そして4年後に卒業に漕ぎ着けるのかは勿論、その後のキャリアで
どんな風に大学の世評に貢献してくれるのか、そして卒業25周年の大同窓会の
席上でどれだけの寄付金の小切手を切ってくれるのか、まで、とにかく優秀な
人材を確保することは、短期的にも長期的にも重要なのです。

そのために、SAT(共通テスト)や高校の内申書だけでなく、自己表現の
エッセイがあり、ボランティアやアルバイトの職歴が問題になり、スポーツの
経験も重視されるのです。それらの要素に、推薦状の文言を参考にして「いったい
この志願者はいかなる人物なのか」が入試事務室では延々と議論され、そうして
その年度の入学許可者が決まるのです。”

これはプリンストン大学の入試事務室の職員がライバル校のイエール大学の
サーバーに不正侵入した問題に対してのコラムのくだりなのですが、入試の
選考に関してどのようになされているのかが良く分かると思います。つまり、
その大学にとってどれだけ評判をあげるか、貢献をしてくれるかが評価の
ポイント。つまり卒業後のことを入学時に検討するのです。入試でどれだけ
高い点数を取るかどうかは絶対的な評価ではないということ。点数さえ取れば
そいつはあらゆる意味で能力があるという評価はしないということ。

ただ、これはすごーく手間のかかる評価であるのは間違いないし、その評価が
どれだけ信憑性のある、あるいは客観性があるかは疑問のあるところですが、
また日本にはなじまないやり方のように思えるかもしれませんけれども、
日本のように建前だけで済ませようとして現場を錯乱させるような指導を
している文部科学省はどうにかならんもんかと思うわけでありまして引用を
させていただきました。

はい。今日は曇り。(東京地方)


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