2010年05月03日(月) |
91歳 私は年寄りではない |
1、イタリア:疾走する91歳 陸上で獲得メダルは85個 http://mainichi.jp/select/world/news/20100502k0000m030074000c.html 毎日新聞 2010年5月1日 2、日野原重明 (99歳)の語録
1〜2日は孫2人を連れて七福温泉に行って来た。妻と2人で疲れて帰って来た感じである。
やさしい人間学講座で古今東西の歴史に名を残した人たちの語録を紹介した。一番強く印象に残ったのが聖路加国際病院理事長の日野原重明先生である。 今年の誕生日で99歳になられるのに社会の第一線で活躍しているのである。 心からの尊敬をこめて日野原先生語録を25エンピツに引用した。 その中に一つをここに掲示させていただきます。
私は人生の仕事を終えたと思う元気な老人に、 75歳以上からの人生において 何か新しいことを創(はじ)めることをすすめています。 よい出会いがある。それは、あなたの才能なのです。 日野原重明『生きかた上手』
5月1日の毎日で「イタリア:疾走する91歳 陸上で獲得メダルは85個」 が報道されていた。ウーゴ・サンソネッティさんはローマ市南部、マルコーニ街のアパート3階に一人で暮らす。173センチ、72キロ。 語録のみをここで引用したい 「私は年寄りではない。老人だと思ったことは一度もない」。 「大事なのは常に新たなことに挑戦し目標を持つこと。目標が消えた時、自分は初めて老人になる。でもまだその段階ではない」 ウーゴ・サンソネッティさんは陸上を始めたのは75歳なのだ。 「1940年6月、大学の法学部を出た翌日、ムソリーニが宣戦布告し、青春を奪われた。その後は働きづめだった。75歳で引退した時、青春を取り戻そうと、スポーツに打ち込んだ」
日野原先生の以下の語録をもう一度噛みしめたいと思う。 「75歳以上からの人生において 何か新しいことを創(はじ)めることをすすめています。」 この記録にご関心のある方は是非以下をお開きください。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― イタリア:疾走する91歳 陸上で獲得メダルは85個 毎日新聞 2010年5月1日 陸上競技の国際大会に今も出場し、計85個のメダルを手にした91歳のお年寄りがいると聞き、ローマ下町の自宅を訪ねると、こう言い返された。「私は年寄りではない。老人だと思ったことは一度もない」。その気合はどこから来るのか。メダルより誇らしいと語るその半生を聞いた。【ローマ藤原章生】 ウーゴ・サンソネッティさんはローマ市南部、マルコーニ街のアパート3階に一人で暮らす。173センチ、72キロ。第一印象は好々爺(こうこうや)だが、ピンと伸びた背筋が違う。 70歳から体重、体形は全く変わらない。秘訣(ひけつ)の一つは腹八分目の食にある。朝は砂糖を加えた生卵2個をパンにつけて食べ、牛乳0.5リットルとオレンジジュースを飲む。昼はパスタ80グラム、晩は肉または魚80グラムにそれぞれ野菜、果物をつける。間食はとらない。コーヒーは朝夕1杯でワインは少々。たばこは学生時代から1日5、6本。多い時は10本吸ったが、45歳でやめた。「減らすとプールの潜水記録が伸びたので、自然にやめられた。今も25メートルはいける」 「毎朝ベッドを直し、掃除をし柔軟体操をするが、競技場で走るのは週3回。普通と違うのは高いテーブルで立ったまま仕事や読書をすることだ」 陸上を始めたのは75歳だ。「1940年6月、大学の法学部を出た翌日、ムソリーニが宣戦布告し、青春を奪われた。その後は働きづめだった。75歳で引退した時、青春を取り戻そうと、スポーツに打ち込んだ」 若いころからテニスやウインドサーフィンをしてきたが、70代の時、肩の腱(けん)を痛めテニスができなくなった。代わりにフットサルを始めたら「一番年上なのに一番動いている。陸上に転向したらいい」と医師に言われ、走りはじめた。 35歳以上が出場するマスターズ大会は、35〜39歳の部というように5歳刻みで競う。ウーゴさんは75歳の時、六十、百、二百、四百メートル走、六十、八十、三百メートル障害、走り幅跳び、走り高跳びの各種目に出場し、いきなり上位に食い込んだ。 毎回5、6個手にしてきたメダルは85を数え、百、二百、四百メートル走などで、いまだに破られない10の世界記録を持つ。90歳だった昨年、二百メートルを41秒19、四百メートルを1分54秒71という90〜94歳部門の世界記録を作った。驚くのは、91歳の今年、その記録を縮めたことだ。 「大事なのは常に新たなことに挑戦し目標を持つこと。目標が消えた時、自分は初めて老人になる。でもまだその段階ではない」 陸上にだけ注目されるのが好きではない。「私にはもっと誇れることがあった」。戦後の食糧難だった52〜62年に、イタリア人110家族の移民と現地の人たちを率いて中米コスタリカのジャングルを開拓。密林が今では人口20万の町となった。帰国後は、力量を買われ、冷凍食品大手「フィンドゥス」の再建を任され成功。75歳まで顧問として働いた。 1919年生まれ。がむしゃらに働くことが義務づけられた全体主義のムソリーニ政権下(1922〜43年)に人間の基礎ができた。走り続けるのは、そんな世代とも関係があるのだろうか。 今年の世界大会では95〜99歳枠に参加した人はいなかった。数年後、その最高齢の枠を疾走する筋肉質の男が目に浮かんだ。 【関連記事】
イタリア:くすぶるメディア「公的支援」削減 イタリア:メディア支援削減、波紋 政府が検討、猛反発で見送り 毎日新聞 2010年5月1日 21時35分(最終更新 5月1日 21時45分) ――――――――――――――――――――――――――
11、日野原重明 99歳 ひのはらしげあき。1911年山口県生まれ。 37年京都帝国大学医学部卒業。41年聖路加国際病院内科医となる。以来、内科医長、院長代理、院長を経て、現在は、聖路加国際病院理事長・同名誉院長、聖路加看護学園理事長、財団法人ライフ・プランニング・センター理事長など。98年東京都名誉都民、99年文化功労者、2005年文化勲章を授与される。早くから予防医学の重要性を指摘し、終末期医療の普及、医学・看護教育に尽力。成人病とよばれていた病気について「生活習慣病」という言葉を生み出すなど、常に日本の医療の先端を走っている。97歳の現在も、医師としての活動を続けている。2000年9月には、これまでの人生で培った経験や過去の教訓を次世代に伝えることを目的に、75歳を過ぎても元気で自立した人を募り「新老人の会」を結成。同年春から雑誌『いきいき』に「生きかた上手」の連載を開始、現在も好評連載中。この連載をまとめた01年12月に刊行した『生きかた上手』(ユーリーグ)はミリオンセラーとなる。03年には『続 生きかた上手』、04年には『テンダー・ラブ』、05年には『新生きかた上手』、06年には『いのちの授業』、08年には待望の『生きかた上手』の文庫版(いずれもユーリーグ)を刊行。これまでの著書は200冊を超える。
人生は習慣化された行動の積み重ねで作られていくものです。 習慣が人間の性格や品性を作るのです。 習慣に早くから配慮した者はおそらく後半の人生の実りも大きいことでしょう。 日野原重明 いくつになっても創めることを忘れない。 そのような生き方をしていきましょう 。人生には幾段もの節があります。 その節目ごとに発想を変えて新しいことを創めてはどうでしょう。 日野原重明 あなたにとってのよい出会い、それはあなたの才能の自己発見です。 偶然の中に隠されている貴重な発見をとらえてよい出会いに育てるには新しい出会いを楽しむ心の余裕が必 要です。 日野原重明 悲しみも苦しみもそのさなかはつらいけど、後になり振り返 ってみるとそれに意味のあったのに気づきます。たくさんの悲しみや苦しみのおかげでこんなに得るものがあったとさえ言えるような時がくるのです。それが歳を重ねるよさではないでしょうか。 日野原重明 悲しみをただ、さけるのではなく、それを乗り越える努力であなたは成長するのです。あなたの悲しみをそっと受け止めてくれるのは時です。時はあなたには救いなのです。 日野原重明 あなたが出会う人に先づあなたの心を与えましょう そこから希望の道が拓けます。まず与えることから始めましょう。富のあるものは富を、才のあるものは才を、時間のあるものは時間を。しかし何と言っても人が人に与える最高のものは心です。 日野原重明 「ありがとう」のことばで人生をしめくくりたいものです。 財産は残したところで争いの種をまくだけですが、ありがとうの一言は残される者の心を救う何よりの遺産で す。 日野原重明
吸うこと、つまり他人から何かをもらうことばかりに熱心になるのではなく、 吐くこと、つまり自分の能力を他人のために使うようにする。 そんなバランスを取るようにすると心が充実してくるはずだ 日野原重明
地位や名誉は死ねばなくなる。 財産も残したところで争いの種をまくだけですが、 「ありがとう」のひと言は、残される者の心をも救う、 何よりの遺産です。 日野原重明『生きかた上手』から
私は人生の仕事を終えたと思う元気な老人に、 75歳以上からの人生において 何か新しいことを創(はじ)めることをすすめています。 よい出会いがある。それは、あなたの才能なのです。 日野原重明『生きかた上手』 健康とは、数値の安心することではなく、 自分が「健康だ」と感じることです。 日野原重明『生きかた上手』
習慣。この小さな行動の繰り返しが人生をつくります。 日野原重明『続 いきかた上手』 自分のふるまいを相手の視点から振り返って 見つめ直すことを習慣づければ、 やがて思いやりのにじむ所作が美しく備わります。 日野原重明『続 生きかた上手』 人のために自分を捧げる喜びを 知っている人をプロと言います。 日野原重明『続 生きかた上手』 人はいくつになっても生き方を変えることができます。 日野原重明 習慣に早くから配慮した者は、おそらく人生の実りも大きい。 日野原重明 ビジョンは大きいほうがいい。たとえ自分が実現できなくても、 バトンタッチすればいいのですから。 日野原重明 動物は走り方を変えることが出来ない。 鳥は飛び方を変えることは出来ない。 でも人間は生き方を変えることができる。 日野原重明 どんな困難に直面しても、「ここから始まるのだ」と とらえ直すことができれば、私たちはかならず前進できます。 日野原重明 心の良い習慣というのは表情やしぐさにあらわれる。 人の顔つきも習慣なのですね。 「生きるのが楽しくなる15の習慣」より 人は最後の瞬間まで、 生きる希望に支えられるべきなのです。 「生きかた上手」より 生きていることの意味は自分で探し勝ちとるものです。 それがつまり生きがいにつながります。 「続 生きかた上手」より 誰しも幸福を望みますが、 それを実感することにおいてはきわめて鈍感です。 「生きかた上手」より 習慣 この小さな行動の繰り返しが 人生をつくります。 疲労は、疲労感がつくる。 創(はじ)めることを忘れなければ、 人は老いることがありません。 生きているかぎり私たちは 自分で自分を 育てていかなければなりません。 いのちはその最後の瞬間まで 自分らしく生き抜くために 与えられています。 人は生の最後の瞬間まで 誰に何かを与えることができます。
日野原重明 人間は試練を受けると成長する 日野原重明
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