| 2004年08月07日(土) |
広島 59回目の「原爆の日」 |
広島は昨日、59回目の「原爆の日」を迎え、平和記念公園では「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。4年連続で式典に出席した小泉純一郎首相は「今後とも平和憲法を順守し、非核三原則を堅持する」(スポニチから)とあいさつした。広島に人類初の原爆が投下されてから59年の年月が経過したのだ。日本の社会には、原爆を投下したアメリカに対して、激しい憎悪を持っている人は少ない。それはなぜだろう。このような視点で以前も書いたことがあるが、日本の社会には「水に流す」という文化があるように思う。「過去にいろんなことがあったが水に流して仲良くやって行こう」という概念でそれなりの意味がある。 中東に目を転じると12世紀キリスト教圏(ヨーロッパ)のイスラム圏の侵攻である「十字軍の戦い」を今だに怨念としての発言がある。これは800年もの間何の文化的な発展もなく、時計の針が止まっているかの印象をうける。北朝鮮は戦後59年間日本の占領政策に対する怨念をいい続けているが、この思考と行動がこの国のプラスになっていることはなにもない。中国で開催中のサッカー「アジア・カップ」で日本チームが激しい反日のブーイングにさらされている。日本人サポーターにも物が投げられるなど、会場は異様な雰囲気となっている。中国政府筋は「スポーツと政治は混同すべきではない」と主張。過去の米中の卓球外交などに触れ「スポーツは歴史的な恨みを解消する場。四年後には北京五輪が控えていることを忘れるな」などとしているがこの問題は簡単に収まらない。60年以上前のことは「水に流す」努力が必要だ。今日中国との決勝戦に関することは8日付けで記述したい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 癒しの森353 2004年8月7日
無数の露がキラキラ光る
朝の散歩のことを初めて癒しの森に書いたのは、5月30日であった。この時はこんな一文を書いた「ドイツの哲学者カントは、毎日決った時刻に散歩していたという。彼の優れた思想は、「座っている時」でなく「歩いている時」に現れたという。この一文に触れ、癒しの森の行き詰まりを打破するため、一念発起し早朝の散歩を実行している」すなわち、歩くことで血液の循環が良くなり、脳も刺激され癒しの森の記述テーマが見付かるとのイメージを持ったのだ。
少々の日時で上記のイメージが誤りであったことに気づく。それは歩くこと自体が癒しであり、自然を肌で触れることによって癒しも森のテーマが次々に生まれることであった。毎日ほぼ同じコースを歩いているのであるが、自然はいつも異なる朝を演出する。今日は5時50分に家を出た。少しひんやりとし天も高く初秋を感じさせる気持ちのよい朝であった。コースの一部200メーターは、ほぼ太陽に向かって歩く場所がある。太陽の角度は15°余りであった。稲には無数の露が付着し、太陽の光を受けてキラキラと光っていた。自然が作り出す一瞬の名画であった。 ・天高く 秋の風情の 今日の朝 無数の露が キラキラ光る
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