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関根潤三さん - 2004年01月29日(木)

昨日、大学の某OB会の席で関根潤三さんとお会いした。

テレビの優しい雰囲気そのままで、野球殿堂入りまでした方にこんな言葉使いをしたら失礼極まりないと思うが、まさに「癒し系」の方だった。

関根さんは近鉄に入団後、1950年から1956年は投手として活躍し、1953年にはオールスターにファン投票で選出される。1957年から打者に転向。打者デビュー戦で4打数3安打の活躍。引退後はコーチ・監督として若手の育成に努め、ヤクルト監督時代に鍛えた池山、広沢選手といった若手選手たちは、その後チームの中心選手として活躍する。監督を退いてからテレビ解説者として活躍、やさしい解説で若い人達から人気を得ている。

以下、簡単に関根さんの選手時代の個人成績をまとめておきます。

○法政大学
・通算成績:41勝30敗
・1948年秋、12戦10勝のうち9勝をあげ優勝に貢献
・1949年10月に来日したサンフランシスコ・シールズ戦に、六大学選抜軍の投手として出場。延長13回を投げたが2−4で惜敗
○プロ野球
・実働:16年 投手・外野手 左投/左打
・登板:244 65勝94敗3分 1345.1回
・勝率:.409 奪三振:645 防御率:3.42
・試合:1417 打数:4078 安打:1137
・本塁打:59 打点:424 打率:.279
・防御率ベストテン入:1回 打率ベストテン入:5回
・オールスター:5回
○監督成績
・実働:6年 試合数:780 331勝408敗41分 勝率:.448

会の席では、OB会から野球殿堂入りを祝しての表彰があり、関根さんの全盛期を知る司会者が当時のフィーバー振りを話してくれた。中でも、戦後間もない時に行われたサンフランシスコ・シールズ戦の好投が、日本中に「関根潤三」の名を轟かせたきっかけになったという。時代が時代なだけに、その左腕からアメリカ人打者に対して繰り出される速球は多くの日本国民に希望を与えたという。

会の終わりに、関根さんとその左手で握手してもらった。シワだらけのその手から、今までに感じたことのないぬくもりと、エネルギーを感じたような気がした。


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