自分のことは棚に上げといて・・・
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2002年02月24日(日) なぜ、今さら家族なのだろう? 「家族計画」 DO

「永遠」も「奇跡」もない世界で、どうして登場人物たちは
「家族」という言葉に自分達の生活のよりどころを求めたのだろう?



すくなくとも「家族とは?」なんて大上段に構えて考えこんだり、
議論するような世の中ではなくなってしまっている(と私は思っている)
現在、その思想は時代遅れの回顧主義なものに思えてならない。
(わたし自身が、一般的にいわれている「家族制度」から距離を置きたがっている事を自覚しているというのもその理由のひとつではあるけれど…)


僕らが一般的に語りうる「家族」とゆうものに答えを求めたとしても、
彼らに用意されている答えは「破綻」でしかない事を無意識のうちに僕らは知っている。

血によってその存在のほつれを修復しつづけてきた制度に、
血の強制力を持ちえないものたちが寄り集まったところで、
それは家族でありつづけることはできない。


最少単位のコミニティを形成していくうえで有効的な
「看板」にはなるだろうけれど。


そう、血の絆を持ってしても現在の「家族制度」とよばれる概念の形骸化
破綻を止めることは出来なくなっているのだから…。

けれど、形骸化してしまっているものが何の影響力も持たないか?
といえばそうではないとも言える。
僕らのDNAにはそれが、しっかりと刷り込まれてしまっている。


共同幻想を生み出す下地を、人は生まれながらに持っているのだ。


日本における「家族」という形態の象徴は家父長制家族度だと私は思っている。
登場人物の中で言えば、寛の存在がそのイメージと重なる。
だからこそ彼は自分で「家族計画」を提案し、なおかつ終盤には
「家族計画」の崩壊をも宣言したのであるといえよう。

すべてのイニシアチブを家長と呼ばれる人間がにぎる。
それこそが伝統的に信じられていた家族の姿であり、
寛が思いえがいていた「家族計画」の姿だったのではないだろうか?

まっている答えは破綻だけだったが…。

もちろん寛の存在なくして、この計画自体が発動されることはなかった。
けれど、寛は自分が経験し、実感していた(と思われる)家族という幻想に惑わされ、
求めるべきものを見誤った。
そして、他の者たちはその幻想に巻き込まれていく。
それは、「枷」にはなっても、「絆」になる事はないものだったのに。


『無条件相互扶助契約』
自分でいったその言葉の意味を、寛はきちんと理解するべきだった。

「家族」とは契約ではないのだと。
つねにそれは理不尽なものなのだ、ということを。


唯一、本来の「家族」という世界を知るはずの父役であった寛が
結局はその「家族」から見放されるというのは象徴的でもある。

主人公は「家族計画」の中心にはいたが、「父」ではなかった。

彼はそれぞれのキャラクター達と新しい関係を作り出していくとともに、
かつて「家族」であろうとした者たちとも新しい関係を予感させる形で
物語は収束へ向う。



それは、生まれながらに与えられた「家族」という言葉に縛られた僕には
まぶしすぎる世界だった。

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川崎ゆう |HomePage

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