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2008年03月05日(水) 桜開花予想>西日本中心に平年より遅く 東京は3月27日

- 毎日新聞社
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◆日常

髪を切ったのを職場で指摘されるたびに言訳。ああ美しくない。鏡をみるたび前髪を下ろしたり分け目を変えたり横の毛を耳にかけたり小細工をしてみるが見慣れない。どんぴしゃな髪型はどんなだ?

丁稚先で30分残業。

◆日常2

ケロを保育園の後で耳鼻科へ連れて行った。混んでいたのでケロと散歩して公園で(ケロだけ)滑り台を滑って図書館にも行って時間をつぶし、1時間後に診察を受けたら「左耳が滲出性中耳炎から急性中耳炎になってる」と言われ、切開することに。(ケロは「だからおとうさんにいったのにっ!」と家人に怒っていた。)
耳の穴に麻酔液をたらして11分待つ。段々麻酔が効いてくる感触に気持ち悪くなったらしく「おうちにかえりたーい」と流石の病院好きケロも泣き出した。麻酔液を抜いてもらって、診察椅子に(普段は自分で座っておとなしく診察してもらうけど)私が座り、膝にケロが座り、鼓膜を切開。その後で分泌液を抜いてもらって、鼻の吸入をして「安静に、保育園は外遊びしなければ行ってもいい」と言われて薬が出て、薬局経由で帰宅。

帰宅したらもう7時半だったので、買ってきたサンドイッチなど食べてケロ就寝。

◆読書

佐々木愛子「きもの暮し女の暦
(淡交社 1986年)

先日ニュースで訃報が流れたが、存じ上げなかったのでどんな本を出していらしたのかと図書館でリクエストして読んでみた。面白い本だった。大正3年生まれの方で、父親は釧路で大きな材木商を営んでいた。自伝的な本なので、当時の北海道の様子も一緒に描かれていて興味深い。

以下メモ&感想。

大正時代の着物。「地味なきものに、花模様などをびっしりと刺繍した半襟を帯の上近くまで幅広く出し」、半襟は冬から春はしぼの粗いちりめん、春の終わりから初夏は縦しぼちりめん、夏のはじめは絽ちりめん、真夏は平絽、紗、麻と生地が変わり、その上に季節の風物を刺繍していた。ふだん着には無地ちりめんの半襟、古くなると母はまとめて染屋に出して古代紫に染めさせた。当時は塩瀬は紋付の白襟にだけ用いたようです、とも書いてある。
「やわらかものを、ふだんに着ることはつつしみがないとされ、ふつうの家では、どんなに暮しが楽でも、ちりめんのきものは大よそいき着でした」「現在では、縞は絣と同様にあらたまったときには着ないとされていますが、大正から昭和にかけての略礼装は、慶弔ともに縞御召に無地紋付の羽織をかさねて着たのです」

盛夏の外出着は明石ちぢみ、絽ちりめんは縦絽、5月の外出着は袷だが普段着はセルの単衣。セルは冬には着ないので明るい色合いが多かった。
5月の末から6月は大人も子どもも男も女も紺絣。次に着るのは先染めの綿ちぢみで縞が多かった。この時期までは晒しの肌着を重ねた。
6月末から7、8、9月のふだん着は、真岡木綿、ちぢみ、綿絽などのゆかた地と、有松などの絞りのゆかたを素肌に着た。日中は紺地で柄もあまり大きくないもの、白地は夕方。綿ちぢみや綿絽は真岡よりちょっとよそゆき。ゆかたは毎日取り換え、毎年ひとりが3、4枚新しいものを注文、帯は博多の半幅など。
9月も半ばをすぎると、ちぢみ、紺絣、セルとなり、10月には袷に戻る。

大正時代はきものも羽織も地味だったし色が濃かったので、羽裏や長襦袢は念入りで贅沢だった。昭和に入ってその頃の羽裏で帯を作ったり、長襦袢で絵羽織を作ったりした。着物の色が明るく薄い色になるにつれ、裏や長襦袢は淡彩になっていった。
帯留、簪は珊瑚は秋から冬にかけて、翡翠は春から夏にかけてと使い分けた。

子どもの着物は縞木綿や染絣(絣柄を染めた木綿地で、織りの絣より安価だった。当時から絣柄プリントがあったんだな)。派手な柄はモスリン。モスリンは唐ちりめんと呼ばれ、糸質が細く、目がつんで、地風はなめらかだった。

繰り回し(のところの写真のたんぽぽ模様と、萩と桔梗柄のちりめんの着物はすごく素敵)で、きものを羽織にしたり、羽織を着物にしたり、羽二重の帯は羽裏に、子どもの時の着物は長襦袢に。洗い張りは御召、大島、ちりめん類は店に出した。普段着は銘仙、よそゆきやちょいちょい着は御召や大島。大正時代の大島は龍郷柄、よそゆき着は二枚かさね、毎年決まった時期に大きな風呂敷包みを載せた人力車をお供にした「大島屋さん」が来た。奄美大島の方言で話す女性。大島に錦紗の羽織を重ねるのが当時の娘たちの代表的な外出着。

こどものよそゆきの洋服はお母さんがミシンで。できている服をほどいて型紙を作って作った。毛糸のセーターやレース編みも母の手作り。本はアメリカの本の翻訳。東京から来た先生が指南。

娘時代には銘仙。縦糸は絹糸、緯糸は玉糸でとても丈夫だった。裾回しは丈夫なモスリン。高等女学校では先生は銘仙の着物に紺のカシミヤの袴、生徒は木綿と銘仙が半々位で、セルの袴。「きものの暮しでは、一度水をくぐったものは、よそゆき着にしないという不文律があり」仕立て下ろしの銘仙はよそゆき着で、洗い張りはふだん着だった。女中さんはいつもは木綿の染絣、よそゆきは縞や絣の銘仙。
「学校から帰ると、ふだん着のきものに着替え、通学用のきものと袴はきちんとたたんで、夜は寝押しをしました。きものは1ヶ月同じものを着とおすと、裾回しは破れ、膝や腰がふくらんでくるのです。何枚かのきものを交互に着て、くたびれたきものは着ないよう心がけたのでした。」

昭和9年頃は娘たちは大柄な立涌や矢羽根の染め模様を着、長襦袢は赤の紋羽二重。

昭和12年、白糠村の知人を訪ねるとアイヌの住居に連れて行ってくれた。釧路育ちの作者は「子供の頃にはもう町中でアイヌのひとたちを見かけることはなく、(中略)こんなにも貧しい暮しをしているとは知らなかったのです。(中略)このときはじめて気がついたのでした。」
北海道の女性の防寒着は角巻。ウールのコートは一般的ではなく、絹地のコートに広幅のショールをかけた。肌着と長襦袢の間に真綿をひろげてはさみ、防寒していた。

結婚の支度には「留袖、喪服、色無地、紋付の羽織などひととおりのもの」。呉服屋で居合わせた母娘はお母さんが一生懸命、娘はうわの空で膝の脇には森田たまの「もめん随筆」。

主婦の普段着は冬は銘仙の袷、春や秋はセル、夏はゆかた。夏の気軽な外出着は絹麻(絹のような薄手の麻の白生地に模様を染めたもの。小千谷ちぢみなどより格安)や絹紅梅、肌襦袢の上に着て博多の単帯。ふだん履は杉や神大桐の台にビロードの鼻緒をたてた下駄。
「大正時代は、地紋のない錦紗の模様染が一般的でしたが、昭和になると、地紋のある綸子ちりめんに模様を染めることが広く流行し、それまでの地紋のない錦紗を着ていると、時代遅れと言われ、錦紗ちりめんは急速にすたれました」(私が解いた袖が長かった錦紗の羽織は時代ものだったのね。)

昭和10年頃から、金糸銀糸うるし糸などで模様を織り出した白生地が流行し、昭和15年に奢侈品製造販売制限規則が公布されると金銀うるし糸を抜き取って投売りする業者もいた。
昭和18年末頃には、反物1反も10mくらいになり、やっと買った銘仙は元禄袖、かぎおくみで仕立てた。
北海道の戦中戦後の衣料の不足で何より困ったのは足袋。型紙を買ってきて家中のものの足袋を作った。11月までに冬中の足袋を用意しなくては、安心して冬を越せない。子供の洋服はセルをほどいてみやこ染で染め、古いミシンで縫った。
昭和22年夏、杉並の農家ではあふれるばかりに衣装をかけて土用干し。食料と交換したものか。京橋や銀座の呉服店では古着を扱っていた。

昭和25、6年頃から、えんじ、ローズ、ベージュなどの地に黒や茶の蚊絣の塩沢御召が並んだ。昭和30年から36年まで、十日市が映画会社とタイアップして衣装を提供し、各地のデパートや呉服店で取次販売。昭和40年代には紬が織物の代表のようになったが、それ以前は織りといえば御召だった。緯糸に紬糸を織りいれた上代御召はちぢまないが色使いがすっきりせずあまり見られなくなった。晴れがましい場では戦前は着なかった緞子などを着るようになった。

ここまでが第一章で、第二章は夫の転勤で長野に暮らし始めてから、着物評論家(訃報での肩書き)への道を歩みだした後のことについて。

上田紬に出会い、昭和28年に創刊された「美しいキモノ」に昭和31年に上田紬についての文章を書いたのがキャリアの始まり。
上田の捺染工場では古い型紙で染めた細かい小紋に開眼。ご主人は古い型紙を集めていて、若い頃は伊勢の白子から型紙職人が荷車に型紙を積んで染屋を回って行商していたという話を聞き、後に小宮康孝氏からは小宮康助氏もここで型紙を分けてもらったと聞いた。
「戦前も戦後も、私は東京で何軒もの染物屋で白生地から染めたり、染め直しをしてもらいました。でも心から気に入った文様に出会うことはとても少なく、いつも不満でした。(中略)私が感嘆した型紙は、江戸の末から明治にかけての型紙でした。」
(という文章を読んでは、染替をしてみたいと思っているが、あまり過大な期待をしてはいけないらしい、店により出来不出来は大きいようだ、と学習。)

そして江戸小紋の小宮さんの工場の話では、現在(といっても20年前)いつでも染められる小紋の数は200位。ごく細かい柄なら10反、普通の柄でも30反で型紙は使用できなくなる。
(それ以外の柄はPCでデザインを再現してプリントするのは簡単だけど、型紙から彫ってもらって手摺りでは私の手の届く値段ではないだろうなぁ。手持ちの洗い張りを何とか生かしてあげたいと悩む。)

著者はその後、夫の静岡転勤で静岡に移住。ここでも型染めの作家さん達と交流を持ち、昭和32年にはアメリカ占領下の沖縄へ。紅型、藍型、芭蕉布などを間近に見てくる。
(宮古上布の「乾燥してはきれやすく」というのに、「ヨーロッパのリネンは高温のアイロンでピシッとしわを伸ばすのに?」と思っていたが、リネンは亜麻で、上布は苧麻(ちょま)で、種類が違うんだ。と今回調べてラミー(リネンより粗いとされている)も苧麻だと知った。そして宮古上布は藍で染めるそうなので、私のポリ麻絣プリントは八重山上布風なのね。)

江戸の藍染は、元は藍がめで染めると布が縮むと糊がはがれるので木綿にしていたそうだが、松原四兄弟が絹地に染めることに成功した。森口華弘氏は大正昭和には途絶えていた撒き糊の技法を復活させたとか、志村ふくみさんとか、ちょうど活躍していた時期が着物が芸術品になっていった時期と重なっているようで、私でも名前を知っている作家さんとの思い出が語られる。そして娘は親の反対をおしきって染織作家になり、訃報では喪主をつとめ、人間国宝になっていた。

全体に知らないことが沢山書いてある面白い本だった。新しい本は着物のルールについては色々書いてあるけど、私は文化としての着物に惹かれる部分が大きいんだな。森田たま「もめん随筆」は時々題名を見かけて読んでみたいと思っているが、地元図書館で蔵書がないのでリクエストしよう。


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