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2005年01月22日(土) ガロ的エネルギーの今

みなさまは「ガロ」をご存知でしょうか。
ここで思わず「学生街の喫茶店」を思いだしてしまったかたは、ワタシより年上です。
ワタシはそのへんはピンと来ません。 と、何を一生懸命主張しているのでしょうワタシ。

ここで言っている「ガロ」は、月刊漫画誌のガロでございます。

古くは水木しげる、白土三平から始まり、池上遼一、つげ義春などの重鎮もこのへんからメジャーになっていった という話なんですが。
ワタシはこのへんのことはわかりません。若いので。

ワタシが知っているのは、1980年代のガロです。
1980年代もおしまいという頃、ワタシは専門学校生でございました。
モラトリアムの典型のような若者だったワタシは、高校が進学校だったのに、なーーーーんもする気になれず、「学費使ってまで勉強したくないし、銀行に就職するか、公務員になろうと思う」と、堅実な道を歩もうとしていたなっちゃんを無理矢理誘い、県内のアホばかりが集まる専門学校に入学したのでした。

かわいそうななっちゃん。

しかしあの頃は、誰かの人生を変えてしまうようなワガママを、へーきで力づくでできていたのですね。
若いって、なんておそろしいんでしょう。
今となってはまぶしいばかりの勢いでございますが。

親は当時はまだめずらしかった海外留学をすすめてくれたのですが、なっちゃんと別れるのがイヤだったワタシは「自分で稼げるようになって、それでも行きたかったら自分で行きます」と偉そうなウソをつき、せっかくの留学話を辞退。

これも今なら飛びついて飛行機に乗りますが。
恋なんていつだってできるさ、あるいは愛があれば離れても大丈夫さ、てな具合に。
しかし当時は若かった。
この恋を失ったらもうダメぽ、と信じ込んでいたので、ワタシなりに真剣だったのでございます。
若いっておそろしい。そしてまぶしい。

で、その専門学校で、ワタシは「ガロ的エネルギー」と出会うわけです。
ガロ的エネルギーとは、即ち、「過剰な自己意識と自己&社会否定」でございます。

ここで当時のガロの説明をしないとわかりづらいと思いますが。
ちなみに、「じょりぃ的印象によるガロ」の説明ですから。念のため。

当時(80年代〜90年代)のガロのメンツはみうらじゅん、内田春菊、蛭子能収、岡崎京子、丸尾末広、山田花子あたりが有名でしょうか。
で、みうら、内田、蛭子、岡崎あたりは今も活躍しているくらいですから、当時から別格のパワーがあったように思いますが、全体的なガロの印象としては、「アングラ、エログロ、不条理、気持ち悪い、陰惨」というものが横行している感じでした。
そして、そういう、「普通と違う」漫画をヲタク魂炸裂で表現している漫画家(アマチュアに毛が生えたようなのも多かった)たちの、うんざりするほどの自己意識がむんむんと充満して、独特の気を放っている、それがワタシの思うところの当時の「ガロ」。

で、専門学校時代は、実はガロに関する具体的なものには、内田春菊の漫画くらいしか出会っておりません。
「へんなくだもの」という漫画が教室に置いてあって、読んだらエロくてかわいかったので(当時としてはすごくエロでした)、ワタシも春菊モノを買って読んでいたくらい。
ガロの存在も知りませんでした。

あとでガロを知ることになり、上記の「過剰な自己意識と自己&社会否定」を感じ、ああ、これって、あの教室に充満していたものだー、うげー、なじめなかったはずだよなあの学校ー、でもワタシもその一人だったんだよなー、うがー、なんて思ってイヤな気持ちになるんですが。
この表現でおわかりになるかと思いますが、専門学校での2年間は、ワタシにとって暗黒時代でありました。
オマエ何様だよ的な言い方になりますが、どうしてこんな、はきだめみたいなところに来ちゃったんだろう、といつも思っておりました。
ワタシよりもなっちゃんのほうが悲惨という気がしますが。

で、卒業して。
なぜか就職先もなっちゃんと一緒になって、なっちゃんたらホントに腐れ縁で気の毒ですけども。

ワタシはガロ的なもののことはすっかり忘れ、クソ忙しくも充実した日々を送っておりました。
そしてそのうちきょんと出会い、恋をして、きょんにしつこくまとわりつき、思いが叶い、きょんの一人暮らす部屋へ遊びに行くことに。


わあい。
手料理だって。
きょんのアパートだって。
いやらしい☆

と、浮かれて出かけまして。
花なんか買ってっちゃって。

リビングに通され、その本棚でワタシが目にしたモノに、驚愕しました。
コレです。




ガロばっかり。

この写真は、さっき我が家の本部屋で撮ってきたものですが。
同じような状態で、ずらっと並んでおりました。
ガロのまわりには、丸尾末広、蛭子能収、つげ義春、杉浦日向子ほか超ガロ作家が目白押し。

で、最初は「ガロじゃん!」と、何しろめずらしいので飛びついて読みました。
ワタシは内田春菊くらいしか知らなかったので。

で、読んでみた感想。



があああああああああああああん。


なんか、  すごい    ショック。
みんながみんな、革命家とか芸術家気取りで、ワタシにはハナモチならないニオイがしました。
これがスキなのだろうか、きょんさんたら。


「こ、 これって、きょんさんのシュミ?」とワタシ。
「あ、 ええ。  えへへ」
「ふうん・・・・・」


ワタシ、危うくきょんをキライになるところでございました。
なんでこんなもん読んでんの?

その後、ガロを巡ってよく口論に。

「ああいうのがスキってことはさ、自分もああいう人間だってことでしょ?」
「ああいう人間て?」
「変わってる、って思われて、そこにアイデンティティを見いだしたがるようなさ」
「そこまで考えたことないよ」
「あのさ、変わってるとか気持ち悪いとかの表現に走るって、安易だと思わない?」
「あたしはじょりぃがそこまでそういうところにこだわるのがよくわからないんだけど」
てな具合。

自分は他と違う。君たちにはわからないだろうね、この感じ。 こういうの、描ける?
世間に評価されないことを続けるオレたちのこの表現するパワー、わかる?

と言っているように感じたんですよ。 ワタシ。 ガロに。
それがすごくすごくイヤだったんです。
そして、当時のワタシは今よりもっと全然偏屈で、自分と違う価値観を認めることのできない人間でございました。


が、時の流れと人間というのはおもしろいもので。

きょんと一緒にいるうちに、ワタシはガロ的なものに抵抗がなくなり、逆にそのアングラなパワーに敬意を払えるようになり。
きょんはだんだんとガロ的なモノに興味を失っていきました。
「じょりぃの言っている意味がわかってきた」と。
「フツウのことで誰かの心を動かすことができるなら、そっちのがスゴイよね」と。


そして、今、あの貧乏とノンモラルと「何かやったる!」的なパワーを放つ同質のものがあるかと問われれば、ないのですよねえ、なかなか。
同人なんかとは、全然違うのですよ。
って、ワタシったら同人のなんたるかもわからずに言ってはいけませんね。スンマセン。
流通として成り立っていた出版物が、あのような生臭い気を放っていることができた時代だったのでしょうね。
今となっては、ワタシにとっても愛おしいものでございます、ガロ。


で、今現在、ガロ的なものってなんだろう?と考えてみて、ワタシが思いついたのが、椎名林檎とASIAN KANG-FU GENERATIONでございました。
ガロほど「自分は他と違うんだぞーーーーー」という臭みはないんですが、じゃあ何かというと、単に必要以上に言葉を小難しくしたり、表現を短いセンテンスで理屈っぽくいこうとするあたりかしら。
歌詞カードだけ読んでると、ものすごくガロっぽいんですよ。
音が入るとまたちょっと変わりますけど。
それでもアジカンのがなるような歌い方なんかは、かなり「なんか、ガロっぽー」と思います。
林檎タンの巻き舌具合とかね。
あ、これらはあくまでも個人的感想ですから。

で、ワタシは両者ともスキなんでございますよ。
でも、やはりガロ的なものを感じたときには、専門学校時代のあのイヤーな感じが蘇ってきて、なんか、モヤモヤとしたおかしな気持ちになります。
またそこも楽しかったりしているのかもですが。


なーんて理屈っぽいことを言いながら、ワタシったらアジカンの「夏の日、残像」を聴きながら、しんみりと己に浸りきっている状態です。
これはガロっぽくないので、安心して浸ってます。
あ、ガロっぽくてもスキなんですけどね。


結局何が言いたかったかというと、ガロ的なモノに対峙したときに、ワタシの自信喪失期の気持ちが蘇ってきて不安になるという、そんなお話でございました。
年寄りのひとりごとみたいなモンでございますね。
おそまつ。



・・・・自信喪失期を思いだしてこんな文章書いているってことは、ワタシったら今、自信喪失状態なのかしら・・・・。


なのだろうな。
ちぇ。





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