ささやかな日々

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2023年09月20日(水) 
紫陽花が、花が終わって葉が落ちるものなのに今年はまったく落ちる気配がない。それどころか葉が青々と茂っていってしまう。これじゃ樹が休む暇がない。紫陽花の前に座り、じっと彼らを見つめる。どうした紫陽花。この暑さで時計が狂ってしまったか。
狂ってもおかしくはない。そのくらいこの夏の暑さは異常だった。過日北海道に住む友人が写真を送ってくれた。咲いている桜の花の写真。何だろうと思ったら、「今朝咲いてたんだよ。狂い咲きだよ」と教えてくれた。そのくらい、みんな、暑さで時計が狂ってしまってるんだなと思う。
受刑者のUさんから手紙が届く。これまで本の感想など誰かと共有したことはなかった、だからひとによって読み方がこんなにも違うものなんだということを知らなかった、と書いてあった。私にとって読後感は十人十色、というのが当たり前なのだけれど、彼にとってそれは決して当たり前のことじゃなかったのだな、と、その時知った。ひとによってはこんなところが気にかかるのか、と、そういうこともこれまで気づかなかったし知らなかった、とも。ああ、だから、自分の考えが絶対になってしまうのか、自分の行動が正しいとだけになってしまうのか、と、そのことに気づかされ、私はちょっとぼおっとした。
程度の差こそあれ、ひとはそんなふうに、自分の思い込みの囲いの中で生きているのだろうなぁ、と。そのことを思った。この柵をせめて、通り抜けやすいようにするとか、越えやすくするために高さを低くするとか、工夫をしないといけないな、と。他者と共に生きるというのは、そういうことなんだろう。

ジャニーズの性加害のニュースがいまだやまない。人間はどうして、一度「これは叩いてもよい」とされたものに対して容赦がないのだろう。そもそもこの性加害は暗黙の了解のように多くの人間が知っていた事柄。最初の頃は今更感さえあったくらい。なのにどうだろう、叩いてもいいんだ、となった途端、全員が全員ここぞとばかりに批判・攻撃し始めた。片っ端から。
確かに加害はだめだ。絶対だめだ。被害者救済は当然だ。
が。
だからといって、ジャニーズ事務所に絡んでいるタレントたちを片っ端から干すのは違うと思う。それこそ二次被害になってしまう。
もっと、対話を重ねてゆかないと。このままじゃ、互いに互いを傷つけたまま、それどころかもっと傷つくことになってしまう。

加害・被害のことについて対話しようとしても、つい相手を責めてしまったり過剰に防衛してそれが攻撃になってしまったり。当たり前だ、これまでずっと加害と被害は対立すべきものとしてそこに在ったのだから。でも対立から生まれるものって何があるだろう。対立したまま対話は困難だ。相手は自分を責めるに違いない、断罪したいに違いない。対立したままだと、何処かでそう思ってしまう。思わないようにしてもそう思ってしまう。だってこれまでずっと「対立」という関係でしかなかったのだから。だからそれを一度緩める或いは手放す必要があるんじゃないだろうか。
がちがちに防御で固めてる相手の心の扉を開いてもらうために何ができるんだろうって、だからいつも思う。防衛する必要はないですよと伝えるためにどんな言葉が必要だろうっていつも考える。私は対立したいのではない、対話したいのだと気づいてもらえるためにどうしたらいいだろう、と。
対話、と、言葉で云うのはたやすいけれど、実際為すのはとても難しい。だからこそ、ちょっとずつ、ちょっとずつ、互いに歩み寄る必要があるんじゃないだろうか。
あなたのそれは私は理解できないけれど、でもここは理解できる。君のこれは私は知らないのだけれど、教えてもらえないだろうか。
否定から入ってばかりでは、相手は自分の存在が拒絶されていると思ってしまう。自分が逆の立場だったらきっとそうだ。
対話しようと思うのなら。対話ができる「場」を、自分がまず作ってゆかないと。ブレない「場」を。
そう、思うんだ。


2023年09月05日(火) 
日本版DBSのニュースで、憲法で定める「職業選択の自由」等加害者の権利が云々、というくだりを耳にするたび、軽く憂鬱な気持ちに陥るのは私だけだろうか。被害者は、被害後それまで就いていた職を追われたり離れざるを得ない病状に陥ることが殆どなのに。被害者にだって職業選択の自由はあるのに。
被害に遭い、PTSDや解離性障害等を被ると、それまで当たり前にできていたことができなくなる。それ故、仕事をスムーズに進めることが難しくなるし、職場の人間関係でもたいてい躓く。私の場合などは、加害者が同じ職場の人間だったこともあり、「職場」「会社」というもの自体がトリガーになってしまった。幼い頃の夢だった仕事に就きこれからと思っていたのに、その場所を自分から離れる選択をせざるを得ない状況に陥った。職業選択の自由なんて、そもそも取り上げられてしまった。
加害者の権利よりもそもそも、子どもを守ることを考えたいし、同時に、加害行為によって生まれ堕ちた被害者のこと、被害者の権利のことを、もっと真剣に考えていってほしい。でなければ、被害者はとてもじゃないが報われない。

ジャニーズの性加害のニュースにしても。
第三者委員会の報告書を読んだ。私は少し、複雑な思いを抱かずにはいられなかった。それは、もし被害者が女性たちだったら、ここまで踏み込んだものになり得たのかな、と、そう思えてしまったからだ。
たとえば「本件性加害が密室で行われており客観的証拠が残りにくい性質のものである上、加害者のジャニー氏が亡くなっていることを考えると、被害者の側に性加害の事実認定について法律上の厳格な証明を求めるべきではない」という文言など。読みながら、何人もの女性被害者たちの顔が浮かんだ。あの子もあの人も彼女も、事実認定を、法律上の厳格な証明を求められ、それを果たしきれず、結局いいように丸め込まれてしまった。被害を被害と認めてもらえなかった彼女たちの、あの涙たちを、私は到底忘れられない。
いやもちろん、今というこの時期であったことも影響しているに違いない。分かってる。ジャニーズの性加害の問題が今この時だったからこそ、ここまで踏み込んだ、そして被害者を尊重するものになり得ているんだと、そう思う。
でも。
どうしても靄ってしまう。これが女性たちの被害だったら。ここまで世間は、黙って受け取ったろうか、と。ああまた女が騒いでる、とあしらって終わり、になったりしたんじゃなかろうか。
ぼんやりと、「男尊女卑社会」という言葉が浮かぶ。あまりにそれが当たり前になり過ぎて、私たちの骨身に沁み込み過ぎて、そうじゃない状態が想像つかなくなっているに違いない。男も女も、男も女も関係なくとも、尊重される社会、なんてもはや。

以前から思ってはいるけれど。被害者の権利がもっと確立されなければ、しっかり守られるようにならなければ、被害者はどうやったって「加害者」というものに対する偏見をもたずにはおれなくなる。ちゃんと目の前の加害者を見つめるよりも、「加害者」という世間の像に振り回され、さらに反発が大きく膨らんでいってしまうんじゃないか? そうやって、「被害者」と「加害者」の間の溝を深くし、強烈な対立構造を作り上げ、得するのは一体誰なんだろう。


浅岡忍 HOMEMAIL

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