ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2023年08月29日(火) 
ここに来て、ベランダの朝顔が次々花を開かせている。余程暑くて花を開かせる気力さえ今までなかったのかしらんと思うと、なるほどなぁと思ったり。
花を眺めつつ思う。青色の朝顔の花弁が私は好きだ。透けてしまいそうな薄く脆い花弁がぴんと張っている、それだけでどきどきするのに、それが青い花弁だとうっとりする。
夏ももう終わりになってようやく花が開いたことも嬉しいけれど、青いうっすらとした花弁が風に揺れているのを今年も見ることができたことがさらに嬉しくて。しばらくベランダに佇む。青い空に青い花弁、青の二重奏。
それにしても雲の表情の何と豊かなこと。ここ数日ずっと。それは低気圧の云々という説明を受けたが、いや、それはそれとして、美しいものは美しいんだよと心の中言い返した。豊かな表情をたたえる雲を眺めるのは、実に幸せな時間。眺めているだけで想像が膨らむ。あの雲の向こうに何があるのだろうと思い描くだけで、まるで短い旅に出ている気持ちになれる。

立て続けに映画を観た。
まず、「クロース」。主軸の少年二人の醸し出す空気の何と豊かなこと。こんな時間が永遠に続けばいいのにと思わずにはいられない。周りの理解の無さ・想像力の欠如が彼らを追いつめてゆく。そうして起こった友の自殺。でも、映画はそれさえも静かに静かに描き続ける。そのリズムは最初から終わりまで一貫していて、だからこそ観る者を畳み込んでゆくかのようで。答えらしいものは何処にもない、観る者に全て委ねられている。
ラストシーン、主人公の眼差しがこちらを射る。彼が体験から抱え込んだものがどれほど大きく、そして彼にとって重いものであるのかが、これでもかというほど伝わって来るそんな、眼差しだった。そして思う、それでも明日は続くのだ、と。

もうひとつは、「赦し」。ようやくスクリーンで観ることが叶った。
観終えて思うのは、これは被害者家族の再生の物語なのかな、と。そのこと。
加害者が何故再審請求までして、外に出たいと望んでいるのか、が、分かるようでいて、でも納得はしきれない。この、納得しきれない描かれ方が、目指していたことなら、確かに成功しているよなぁと思う。でも、そうじゃないなら、その部分、何故、どうして、をもっと描いてほしかったなと思う。
「赦し」というタイトル。ゆるすには許すもあるが、敢えてこちらの赦しを用いたのには意味があるはず。そのことをひとり観終えたあと考えていた。
赦す、という言葉を「状況をあるがまま受け容れ次の一歩を踏み出すこと」として捉えるとして。ああこの映画はそういうことが言いたいのか、と納得した。じゃぁ他に赦すという言葉の解釈があるのかといえばない気もして、赦すって、簡単には使えない、責任のある、重い言葉だよな、と改めて思う。
納得できることもあれば、納得できないこともある。でもその納得できなさも抱えて受け容れて、そのうえで一歩を踏み出す。なんて重いことだろう。
でもそもそも生きてるって、納得できることなんて実は、少ないのかもしれない。
私は。いまだ自分自身を赦すことはできないでいる。他の誰が、いやそんなことはない、あなたは悪くない、と言ってくれても、私自身が私を赦すことができないでいる。
この、赦すことができないでいる自分をあるがまま受け容れることなら、できる。そこから始めるしかないかなぁ、なんて、思う。

それにしても。
映画を映画館で観ることができるようになって、それが何より自分は嬉しい。ひとつ、ずっと大事にしていたことを取り戻した気がする。長い長い時間がかかった。何十年という時間がそこには横たわっている。振り返ってもそれは途方もない時間だ。もう二度と自分は映画館に座すことなんてできないんだと思って泣いた日々もあった。そんなことたちをあれこれ思い出しながら、時間というのは途方もない薬なのだなぁと、しみじみ思う。


2023年08月21日(月) 
彼女があの夜放った言葉が、まるで楔が打ち込まれたかのように刺さって抜けない。
あなたが受けたという親からの虐待っていうのは別に特別なものじゃないでしょ、あの当時よくあることだったんじゃないの。だからそれを虐待とかアダルトチルドレンとかいう言葉で特別に括る方がおかしいと思う。

彼女は酔っていた。酔っていてもたかが外れてたわけじゃない。分かっていてちゃんとわかっていて彼女はその言葉を発していた。だから、私は正直、心の中驚いた。
何を言っているのかこのひとは今分かっているんだろうか、最初にそう思った。でも分かっていて言っているんだということが伝わって来た時、一握りの激しい怒りが込み上げた。
あなたが何を知っているというんだ、私はあなたにほとんど何も喋っていない。

だから余計に怒りというか腹立ちは増幅した。同時に、どうしようもない諦念も。どっかりと私の中に腰を下ろした。

彼女は。
彼女自身恐らく、言葉の端々から伝わってくるのは、彼女の言葉を借りれば「まともじゃない家庭に育ち」、「とんでもない体験をいっぱいした」。でもそれを彼女は決して虐待とか何だとかとは表現しない。たとえそれらが存在していたとしても、彼女はそれを虐待とは決して呼ばない。「当時あって当たり前のこと」だと。

「別にあなたがそれで生き易いっていうなら止めないけど、でも、何も特別なことなんて何もなかったと私は思うわ。だからあなたが虐待とかACとかいう言葉を使う度、ふうん、で、何、って冷めて思うのよ」。

もし。
もしもあの時、彼女と私だけだったなら。その場に集うのが彼女と私だったなら、私は彼女に、打ち明けただろうか。じゃあ聞いて、こんなことがあったりあんなことがあったりもしたのよ、本当に辛かったの、と?
あの場に、幸か不幸か、私たち以外のひとたちも集っていた。私はそのことをまず考えた。この場で私が彼女の言葉を否定し、これだけ酷い仕打ちがあったんだ、なんて話したところで、彼女と私以外の人間にとっては戸惑い以外浮かばないだろうし、困惑するばかりだろう。
だから私は、「そうかもしれないね。でも私はその言葉を得ることで救われたのよ」とにっこり笑って横を向いた。
それが、私にできる精一杯だった。

何だろう、時々、何の事情も知らずに、そうやって「わかった」気になって好き勝手言ってくるひとたちがいる。いやいや、私はあなたに別に、ちゃんとわかるように話していないし、打ち明けてもいないし、それなのにそうやって「わかってる」気にならないでよ、と、そのたびに言いたくなる。
もし私があと二十年年若かったら、間違いなく言い争っていたに違いない。絶対に許容なんてせず、むしろ怒り狂っていたに違いない。

でも。
私は長く生き過ぎた。そんなふうに怒り狂って自分の人生を開示するには、もうあまりにいろんなことがあり過ぎて、とてもじゃないが語り尽くすことなんてもう、できない。できないところまで、生きてきてしまった。
良くも悪くも。長く生き過ぎた。

私は彼女が嫌いじゃない。むしろ好きだ。でも。
今回のことはとても、残念に思っている。

うん、そうだ、私は彼女の言葉で、深く傷ついたのだ。
ふたりきりの時にそういう話題を出すならまだしも、赤の他人もいるような場面でそういうことを言い放った彼女に、私は酷く傷ついたのだ。

ここまで書いて、窓の外を見やれば、じっとり湿った夜気がそこに横たわっており。ぴくりともそよがない風鈴が、軒下にぶらり、ぶらさがっている。


2023年08月08日(火) 
希死念慮がだいぶ収まってきた。強張った身体もだいぶ解けて来た。すっかりがちがちになって痛む身体は、きっと心をそのまま映す鏡だと、改めて思う。心と身体は繋がっている。何処かで読んだ言葉が思い出される。鬱等で精神科に通って来る患者さんに、自分が何をしていたかといえば、ひたすら身体のメンテナンスだと、精神科医の言葉。何を言ってるんだろうと読んだ時は思ったけれど、こうして改めてかえりみると、あながち嘘ではないのだろうなと思う。
加害者プログラムの、手紙のクラスで、私が希死念慮について触れた、それに対して、死んで楽になりたいとか、そういう気持ちだったんでしょうかと訊ねられた。久しぶりに聴く言葉だなと思った時、ああそうか私がここまで強い希死念慮に捕まってしまうことが久しぶりだったのだなということに気づき、同時に、いや楽になりたいんじゃない、と、その問いに対して即答する自分が、いた。
死んだ先が楽なのかなんて誰に分かろう。分かりやしない。だから私は死んで楽になりたいという感覚がそもそも薄い。じゃあ一体何で死にたいと思うのかと言えば、私の場合、自分を消去したいという思いが強烈にある、ということ。
もしあの時、ここに座っていたのが私でなければ。加害者は加害者にならないですんだかもしれない、その後繰り返し加害を行なうなんて馬鹿な事をしないですんだかもしれない。そんなことを私は思ってしまうところがあって、つまり、私がいなければこんな事は起きずに済んだ、と。そう思っているということ。もっと言えば、私が一番赦せないのは突き詰めると、自分自身に他ならない、ということ。
誰が私を赦してくれても。私自身が私を赦せないのだ。
分かってる。もう知ってる。加害者プログラムを通じて彼らが教えてくれた。「あなたである必要はなかったのだよ」と。たまたまゲームの的になっただけで、被害者はあなたである必要はなかったのだ、と。それを知った当初はショックで、受け容れ難いことだと思ったけれども、でも、今は、そうなのだな、とぼんやり思っている。
私である必要はなかった。誰でもよかった。たまたま都合よくここに座ったのが私だっただけで。今はだから、そのことが、分かる。
でも。それでも。
そこに座ったのが私でなければ。私がそもそもそこに座らなければ私は被害者にならずに済んだんだ、と。そう、思えてしまうのだ。
そこが、私はまだ、自分の内で調整がついていない。
私が私でなければ。そう思うと、私の存在そのものを消去したくなるのだ。そう、生まれるそのところから、丸ごと存在を消去したくなる。
私の記憶を誰ももたないところへ、世界そのものを返したくなる。

ああ、でも。突き詰めれば。
死んで存在を消去できたなら。私は楽になれるのだろうか?
でも、ただ死んだだけでは、存在を消去なんてできないことを私は思い知っている。幾つもの命を見送ってくる中で、そんな都合のいいことできないのだということを、存在そのものを丸ごと、消しゴムで消すみたいにきれいさっぱり消去なんて、不可能なのだ、と、思い知っている。
だから、苦しい。いつだって苦しい。
そして、私は死んだって楽にはなれないのだと自分を嘲笑したくなる。おまえが死ぬことで誰かの心を傷つけるだけなんだぞ、と嘲笑う自分がいる。私が幾つも見送って来た死によってこれほど傷ついていることを、思い知らされる。

この間久しぶりに、砂浜のある海に会った。一緒に行った友人Mちゃんが「もうこの場所からすでに潮の香りがするね」と言う。でも私はその匂いがまだ分からなくて。ああまだ私の嗅覚は、鈍いままなのだなぁとぼんやり思ったんだ。一時期、匂いがまったくといっていいくらい完璧に分からなくなった、その頃に比べれば段違いなのだが、それでもまだ、ふつうに生きているひとたちとは違うのだな、と、そのことを、思った。

夜がぬるい。通り過ぎて行った驟雨のせいで、じっとり、濡れている。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加