今年は節目となる展示を終えて、新しい仕事がはじまり、未来にむけての希望が生まれた。しかし、秋に祖母が急逝し、残された者としての深い思いも味わった。 小さい頃から大好きだった祖母。 保育園によく迎えにきてくれた祖母。 初めて僕にCDを買ってくれたのも祖母。 サーターアンダギーを揚げてくれた祖母。 真面目で、決して派手ではなかったけど、フォークダンスが好きで、 部屋の奥にキラキラしたドレスや靴をしまっていた祖母。 幼少期からの様々な思い出がよみがえり、その愛情を改めて感じた。 さらに、四九日を過ぎ落ち着いてからは、祖母の生まれ故郷である熊本を訪れた。祖母の姉妹たちと会い、故人の思い出や生い立ち、育った家庭環境についてかなり細かく聞き訪ねた。その中で、家庭がその人に与える影響の大きさや、戦争が落とした暗い影、決死の思いで上京してきたこと、などを驚きを持って知った。 年齢としては、当然、上の人間だけれど、自分と同じように幼少期があり、青春があった。その時の思いを追体験するようで、時代を超えて祖母のことを知れたような気もした。もういなくなってしまったけど、これからも、いろいろ知りたい。ひとまず、今までありがとう。80年の人生とてもがんばったね。 生きることは大変で、時にはくじけそうになることもある。だけど、自分なりの尊厳をもって、信念をもって生きること人は、とても美しく感じる。自分もそうなれるように、ちゃんと生きようと思う。
生産性のあることしか考えられないような精神状態でここ3日間くらい過ごしている。そして人の意見を聞くことよりも自分の思考を整理することに手一杯である。そう、年末の大掃除が仕事場と実家とほぼ同時に始まったのであった。どうしたら最小のスペースで最大の物質を配置できるのか。しかも美しい分類、美しい配置によって。既に決定された間取り図と棚の寸法の中で、私は最高の整理を目指す。「未整理」と大書きされたクリアファイル、山積みになった書類、「きちっと整理するべきではない。あいまいな物もあっていい。」といった意見などの反逆要素にもめげずに、自分なりのディヴィジョニズムを具現化させていく行為。
レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」やっと上巻読み終わる。志の高さと知性溢れる素晴らしい本。 こんな自分が言う資格なんてないかもしれないが、その崇高さを目指す者でありたいなあ。頭を使って時に苦しい時もあるけれど、この調子で下巻を読むのだ。読破するまで他はお預けです。
一枚の美しい布を見たときに感じる、きらきら光る崇高さ。その奥には、日々の生活から生まれる力強さ、それも豊かな自然環境の中で育まれた人間にしかできないしなやかな力強さがある。 なぜこんなに力強く美しいものが生み出せるのだろう、そう思いながら自分の浅い制作経験と照らし合わせてみる。油絵学科のときは、「なぜつくるんだろう」という問いばかりが先行して、頭だけで手が追いついていないようだった。テキスタイルに移ってからは、手に職をつけるのが精一杯で、それでも後からなんとか思考もついてきたようにも思う。その途上で経験した共通絵画の1ヶ月は、今から考えても自分にとって大切な時間だった。 目の前にある石、たったひとつの、だけどとてつもない存在を、どう受け止めればいいのか。シンプルな故に小手先では逃げられない命題を出されたようだった。それまでの油絵の課題では言葉ばかりが先行していてモノが後回しになっていたが、(今自分が生活している環境も、モノより言葉が重要視されがちであるけれど、)あの時は「大きな石と自分」というシンプルな関係をどうとらえるか、その一点だけが重要だった。大きな石というモノの秘めている力と、自分の奥深くに眠っている無意識を、ひたすらに感じ、対峙させた一ヶ月だった。そしてその時は「こわい」という単純な感情が、石と自分のとりあえずの帰結点となって画面に現れた。 その後の、テキスタイルの2年間、社会に出ての3年間は、いってみれば技術習得がメインだった。しかし、日々の合間を縫っての制作や、これから始まるミュージアムの仕事も、技術ではなく、「モノがあって自分がある」というシンプルな関係性を追求し続けること、(もしかしたら美術という枠すらも取り払って)そうして見えてくる本当の美しさを求めることが、これからの自分にとってのテーマなのではないか。
議論というものは、自分が思っていることと相手が思っていることの差異を確認し、その差異をお互いの歩み寄れる一つの帰結へと導こうとする行為である。がしかし、そもそも自分の思っていることを他者に伝えるということが難しい。一人で考えた末のモヤモヤをわかりやすい言葉で伝えることがまず難しいし、話している間に自分でもよくわかならくなり、余計なことを言ってしまう。そして、今度は相手の言っていることを聞かなければならないが、これも難しい。自分が言おうとしていることで精一杯で、相手の話を聞くのもままならない。それに自分が話していることが既に破綻しかけているので、その話を理解しようとして返ってくる言葉も、もともとの議論の前提からは外れている場合が多い。
100分で名著、今月はレヴィ=ストロースの「野生の思考」です。未読ですが、丁度いま「悲しき熱帯」を読んでいたので、とても楽しみです。彼は美術に携わる人たちに対しても、重要なことを書いてあるように思う。とくに自分にとっては、所謂アカデミックな文化人類学なモノの見方と、「何が美しく、何が美しくないか」という審美眼の間にある溝を、この当時ですでに的確に指摘していることが衝撃。少し背伸びをしつつ紹介。
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