てくてくミーハー道場

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2008年03月31日(月) 『覇王別姫〜さらば、わが愛〜』(Bunkamuraシアターコクーン)

極力、映画との比較はナシにします(一応“あの後”映画を観ました。ビデオで。・・・長かった←コラ)




でもまずは、5年前のちょうど今ごろ(4月2日)に身罷った張國營先生に合掌。




では。

脚本が岸田理生だと訊いた時には、「えっ?!」と驚愕した。

時間軸、おかしくね?(岸田理生は2003年に亡くなっている)

パンフレットに載ってた蜷川さんの話で謎は解けた。

生前書かれていたものを、今まで上演する機会がなかったそうだ。

ヒガシと蜷川さんが組むことになった時、これをやろうと思ったそうだ。

ただ、ヒガシが蝶衣を演りたがったのは予想外だったそうだ。

いやだって、蝶衣が主役じゃん? とぼくは普通に思ったのだが、蜷川さん的にはヒガシが同性愛者を演じたがることが意外だったようだ。

全然意外じゃない。(断言)

ん? 何かマズいことでも? 何かご存じなの蜷川先生は?(や、め、な、さいっ!!/焦)

・・・今言ったことは忘れてください(だったら、書くな!)






まじめにいきます。

脚本にいきなり文句を付けるという恐れ入った客で申し訳ないが、最初に思ったのが、

「蝶衣の女言葉が、ちょっといただけなかった」

てことであった。

女方だから、いいんだろうけど。でもなんか、違和感があった。

これは、ヒガシの責任かもしれない。

ぼくは歌舞伎座の楽屋裏に入ったこともあるから、女方の役者さんたちが普通に女言葉を使ってるのを別にヘンとも思わない(若い役者は、女の外来者に対しては気を使うのか男言葉のことも多いのだが、年配の方は、そらもう普通に「あら、アナタどこいらっしゃるの?」てなもんである)

ヒガシの話し方は、それとはちょーっと違ってて、なんか、ちょっと不自然だった。

端的に言えば、「ヒガシがオカマ言葉になっちゃってるよ〜」とぼくに不自然感を抱かせたくらい、ヒガシが「蝶衣に成りきれてなかった」てことかもしれない。

すいません、例によって偉そうで。

蝶衣が小樓のことを好きになるのは、長い間の二人の血と汗と涙と助け合いの修行の日々があってこそなのだが、今回の芝居ではそこをバッサリ蝶衣のモノローグで片付けてしまっているから(そうしないと、主役が出てくるまでに軽く1時間以上経ってしまうからしかたない)、なかなか客が蝶衣の気持ちにシンクロできない残念さもあった。

第一、モノローグって、一番むずかしいんだぞ役者にとって。

なんか、残念なことばっかりで申し訳ないのだが、はっきり言って、今回ぼくは、“ヒガシの出来には、満足できなかった”

偏見か先入観かもしれないが、どうにもぼくはヒガシから“パッション”を感じることができなかった。

努力は絶対に表に出さないMr.パーフェクト。

それが裏目に出たのかもしれない。

京劇のトップスターになった蝶衣が、

「才能はね、努力しなければ開花しないものなの」

と言い放つシーンなんかは、

「ヒガシが言うと、めちゃ説得力あるなあ」

と感心しさえもしたのだが。

ただ、そんな大スターなのに、蝶衣には、どうしても拭い去ることのできない傷がある。

それは、幼い日に、母に捨てられたという過去かもしれない。

また、決して結ばれることのない相手を愛してしまっている、という現実かもしれない。

はたまた、時代の流れに乗るには、その流れが速過ぎた、もしくは、彼自身がそんな流れにひょいひょい乗れるほど、器用でもなくプライドが低くもなかった、という悲劇なのかもしれない。

でもなんか、ぼくは、この程蝶衣という人物に、さほどシンパシーを感じることができなかった。

端的に言うと、かわいそうと思えなかった。

これはなんと映画を観た時もそうだった。蝶衣の恐ろしく悲劇的な人生が、あまりにも凡庸なぼくの日常とかけ離れすぎてるからなのかと思ったが、それならなんでぼくはルドルフ皇太子とか土方歳三とか荒川の佐吉とかにこんなに入れ込むのかってことになる。

やっぱ「作劇」の違いなのか。

それか、主人公の性格としか言いようがないのかもしれない。

『真夜中の天使』の今西良はどうにも好きになれないが、『翼あるもの』の森田透は好きでたまらない(わかりにくい例え!)ってことと同じかもしれない。

(まじめにまじめに/自戒)・・・中国の近代史をよく知らなすぎるからかもな(恥)

知識としては知っているが、当時の中国人の細かい心情とかがよく理解できない。

戦争中の歌舞伎役者の苦労なんかを想像して当てはめてみたが、中国の場合、日本にはなかった「文化大革命」という難敵があって、それは日本人にはやはりなかなかに理解しがたいものだし。

でも、蝶衣の悲劇は、そういう周辺の事情とかに関係なく、万人の心を打つような普遍的なものであるはず・・・なんだけど。

別に「四十すぎてんだよなこの人」と思って見てたわけじゃないのだが(って書くこと自体、深層心理にあったのかもしれないが)、ヒガシの蝶衣は、キレイではあったが、儚いとも、淫靡だとも、思えなかった。

変に、健康的すぎるのだった。ぼくには。






また単純に、技術的な面での不満もあった。

本人、必死にがんばったであろう京劇の演技も、200年余の歴史を持つ芸術がそんな簡単に間口を開けてくれるはずもなく、「よくがんばったね」レベルがやっとだったのはしかたない。

それこそ、猿之助が、50年近い歌舞伎役者としての蓄積をもってしても、歯が立たなかった(たしかスーパー歌舞伎『リュウオー』で、京劇俳優と初共演)くらいなのだから。

でもヒガシの動きはさすがに美しく、それには満足できた(唱声はさすがに手強かったが)

だがしかし、今回の芝居はミュージカルではないのだが、蜷川さんのお芝居にはよくあるように、役者が「朗々とじゃなく」歌うシーンがけっこうたくさん出てきましてですね。

よりにもよって(こらっ)ヒガシ、遠藤憲一さん、よしよし佳乃、と、歌の得意じゃない人ばっかりが集まってるのになぜだ蜷川さん!(暴言連発)

またもや頭痛が始まったので、失礼を承知で推敲一切せずに書き連ねますが、ここで突然の賛辞。




宮川彬良先生の音楽が、今作、唯一最高の大傑作。




本当に美しい音楽だった。

勝手に決めつけて申し訳ないのだが、『ラストエンペラー』の教授(坂本龍一)は言うに及ばず、『新三国志』の加藤和彦さん、そして今回の宮川先生と、ぼくら日本人には、本物の中国産の旋律よりも、日本人が作った「中国風のメロディ」の方が、ストレートに「中国らしい」と感じられるのが不思議だ。

だが、その最高に美しい旋律を役者が全然歌いこなせてないのが、残念極まりなかった。

冒頭、その胸を締め付けられるような美しい旋律にのって、刃物を振りかざした女が子供を追いかけるという、地獄絵図そのもののシーンがスローモーションで描かれる幕開き。

ニナガワの真骨頂である。

この1分で、観客の心はわしづかみ!

なので、物語が進み出してからのやや失速ぶりが、本当に残念であった(繰り返しになってしまいますが)

話の中心にいる人たち(蝶衣、小樓、菊仙)よりも、モブ(科班の少年たちや大日本帝国の軍人たち、中国国民党の人たちや共産党員たちなど)の方が存在感があったあたりが、いかにもニナガワっぽかった。

あ、役者では、西岡徳(文字化けするので、こっちの字を使わせていただきます)馬さんがさすがの存在感。

映画の袁世卿よりも「重鎮」感があった。

死に方も、華々しかったしね。




そろそろ結論。

観て損はなかった。全然損しなかった。

だけど、また観たいか?・・・う〜ん。

今度は別のキャストで(←書きにくいなら、書くな!/怒)

第二の藤原竜也みたいなのが、現れれば(え? 竜也君本人じゃダメなの?)いえね、何でもかんでも竜也君というわけじゃないんでね、ぼくも








浅い感想ですみませんでった。以上です。もっと勉強します。
















こっそり禁断の一言。「20年前の玉三郎」・・・これだな、やっぱぼくの喉の奥に引っかかっていたのは。だが、夢だ。夢だ夢だ・・・。(←熊谷かよ)


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