ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2023年10月15日(日) 
勿忘草が小さな小さなその花を咲かせる。アメリカンブルーも朝顔も、ようやっとちょうどいい頃合いになったとばかりに次々花を開かせる。暑さがようやっと去った。朝晩は急に冷え込み始めた。今年の秋は短いのだろうか。
切り落とした枝をさらに挿した紫陽花、無事根付いてくれたようで。他の株よりもずっと小さな、でも確かな葉を拡げてくれている。薔薇も、いつもより小ぶりではあるけれどどの樹も次々蕾を付け、風に揺れている。ありがたいことだ。
そんな中一番驚いたのは、ムスカリが早々に芽を出してしまったことだ。こんな早くに芽吹いたら、葉ばかりが伸びてしまうなぁと思ったけれど、でも、水を一切やらずにこの夏を越したのに季節が来れば律義に芽を出してくれるこの子たちに頭が下がる思い。この冬も花を楽しめると思うとなおさら嬉しい。

この半月はまさに言葉通り駆け足だった。まだやりきれていないことがたくさん、机の脇で山積みになっているほど。その中のひとつ、手記と対談記事とが、この間校了になった。あとは届くのを待つのみ。
この、先日メールで届いた校了という言葉、ああ久しぶりに聞いたな、なんて、懐かしくなっている。昔はしょっちゅうその言葉に出会っていて、もう慣れっこになっていたはずなのに。忘れていた、この感じ。
でも。もう私はあの「場」には戻れないし、戻らない。戻れないと思うと辛くなる、戻らないと思うと腹の底の方にぎゅっと力が入る。そうやってこれからもつきあってゆくのだ、こうした何とも言えない想いと。
それが、被害後を生き延びるひとつのカタチなんだと思う。ただ悔しいとか悲しいとか、辛いとか、そんな一言では言い表し得ない、もっとこう、あらゆる想いが混ざり合ったところ。自分の意志も含め、混ざり合って混ざり合って、それでもこの足を進めようと決めたから。
そう、想いというのは、ひとつきりでぎゅっとなっていることの方がずっと少ない気がする。たとえば怒りなら怒り、悲しみなら悲しみ、そういった感情ひとつきりでそこに在ることの方が、実はずっと少ない。
悲しみの裏側には虚しさがあったり、辛さの向こう側にはそれでもと立ち上がろうとする意志があったり。そんなふうに、いろんな感情が絡み合って、混在して、そこに茫々とあることの方が、ずっと多い気がする。
一言では言い表せない、という言葉があるけれど。本当にそうだなと思う。無理矢理一言に収めようとするから、きっと、受け取る側と使う側とですれ違ったりもするのだろう。もっと、混じり合ってあるよ、と言って、いい。

YTさんから紹介された番組を録画で観る。相槌をひたすらうってくれたり、かと思うと片言で喋り合う三体のロボットたちも、昔話を時々「忘れちゃった」と言いながら語るロボットも。いとおしい、という思いがおのずと呼び出されるような姿。
そんな、忘れん坊だったりひたすら相槌をうつ子だったりする「弱い」ロボットたち。でも、それらは果たして「弱さ」なんだろうか。むしろ、それこそがありのままの、本来あるべき姿な気がするのは私だけだろうか。今、私たちは何処まで不完全な自分を他者に晒せるんだろう。不完全で余白があるからこそ、他者との交流の余地ができることを、「弱い」ロボットの姿を通して思う。

だいぶ下火になった気はするのだけれど。でもまだ燻っているジャニーズの記者会見後。つくづく思う。みんな何処かで知っていたのに、ここに来て「加害者」を祭り上げてみんなで攻撃して、何が面白いんだろう、と。誰も性暴力の話をちゃんと深めようとしないのが本当に恐ろしい。これは、性暴力の被害の話なのだよ? 被害者を救わなきゃ何の意味もない。加害側のつるし上げなんて、別に観たくも何ともない。そんな気持ちでいるのは、私だけなんだろうか。
本来のかたちに戻さなくちゃいけない。本来の、そう、性暴力の被害の話に。でなけりゃここまでこの問題が引っ張られる、その意味が、ない。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加