ささやかな日々

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2023年08月08日(火) 
希死念慮がだいぶ収まってきた。強張った身体もだいぶ解けて来た。すっかりがちがちになって痛む身体は、きっと心をそのまま映す鏡だと、改めて思う。心と身体は繋がっている。何処かで読んだ言葉が思い出される。鬱等で精神科に通って来る患者さんに、自分が何をしていたかといえば、ひたすら身体のメンテナンスだと、精神科医の言葉。何を言ってるんだろうと読んだ時は思ったけれど、こうして改めてかえりみると、あながち嘘ではないのだろうなと思う。
加害者プログラムの、手紙のクラスで、私が希死念慮について触れた、それに対して、死んで楽になりたいとか、そういう気持ちだったんでしょうかと訊ねられた。久しぶりに聴く言葉だなと思った時、ああそうか私がここまで強い希死念慮に捕まってしまうことが久しぶりだったのだなということに気づき、同時に、いや楽になりたいんじゃない、と、その問いに対して即答する自分が、いた。
死んだ先が楽なのかなんて誰に分かろう。分かりやしない。だから私は死んで楽になりたいという感覚がそもそも薄い。じゃあ一体何で死にたいと思うのかと言えば、私の場合、自分を消去したいという思いが強烈にある、ということ。
もしあの時、ここに座っていたのが私でなければ。加害者は加害者にならないですんだかもしれない、その後繰り返し加害を行なうなんて馬鹿な事をしないですんだかもしれない。そんなことを私は思ってしまうところがあって、つまり、私がいなければこんな事は起きずに済んだ、と。そう思っているということ。もっと言えば、私が一番赦せないのは突き詰めると、自分自身に他ならない、ということ。
誰が私を赦してくれても。私自身が私を赦せないのだ。
分かってる。もう知ってる。加害者プログラムを通じて彼らが教えてくれた。「あなたである必要はなかったのだよ」と。たまたまゲームの的になっただけで、被害者はあなたである必要はなかったのだ、と。それを知った当初はショックで、受け容れ難いことだと思ったけれども、でも、今は、そうなのだな、とぼんやり思っている。
私である必要はなかった。誰でもよかった。たまたま都合よくここに座ったのが私だっただけで。今はだから、そのことが、分かる。
でも。それでも。
そこに座ったのが私でなければ。私がそもそもそこに座らなければ私は被害者にならずに済んだんだ、と。そう、思えてしまうのだ。
そこが、私はまだ、自分の内で調整がついていない。
私が私でなければ。そう思うと、私の存在そのものを消去したくなるのだ。そう、生まれるそのところから、丸ごと存在を消去したくなる。
私の記憶を誰ももたないところへ、世界そのものを返したくなる。

ああ、でも。突き詰めれば。
死んで存在を消去できたなら。私は楽になれるのだろうか?
でも、ただ死んだだけでは、存在を消去なんてできないことを私は思い知っている。幾つもの命を見送ってくる中で、そんな都合のいいことできないのだということを、存在そのものを丸ごと、消しゴムで消すみたいにきれいさっぱり消去なんて、不可能なのだ、と、思い知っている。
だから、苦しい。いつだって苦しい。
そして、私は死んだって楽にはなれないのだと自分を嘲笑したくなる。おまえが死ぬことで誰かの心を傷つけるだけなんだぞ、と嘲笑う自分がいる。私が幾つも見送って来た死によってこれほど傷ついていることを、思い知らされる。

この間久しぶりに、砂浜のある海に会った。一緒に行った友人Mちゃんが「もうこの場所からすでに潮の香りがするね」と言う。でも私はその匂いがまだ分からなくて。ああまだ私の嗅覚は、鈍いままなのだなぁとぼんやり思ったんだ。一時期、匂いがまったくといっていいくらい完璧に分からなくなった、その頃に比べれば段違いなのだが、それでもまだ、ふつうに生きているひとたちとは違うのだな、と、そのことを、思った。

夜がぬるい。通り過ぎて行った驟雨のせいで、じっとり、濡れている。


浅岡忍 HOMEMAIL

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