2022年12月01日(木) |
曇天から時折、ぽつぽつりと雨粒が零れ落ちてきていた今日。でも傘をさすほどではなく、私は結局わんこの散歩も帽子を被らず出掛けた。小さな雨粒に混じってたまに大きな大きな粒が落ちてきて、私のうなじで跳ねたりする。ワンコがぶるぶるぶるっと大きく身体を振ったり。でも今日は、いつもとルートを違え、新しい道を歩いたせいでワンコはふんがふんがと四六時中匂い嗅ぎに夢中だった。「いつでもあなたは下を向いてるのよね!」と、お友達ワンコのママさんがくすくす笑っていたことを改めて思い出す。確かにうちのワンコは、散歩中ほとんど顔を上げない。 「そんなに下向いてて、鼻、擦っちゃわない?」。試しに訊いてみたが、もちろんそんなこと一向にかまう様子はなく。私も笑いながら彼と共に歩く。
真夜中、家人の明日の弁当用のおかずを作りながら、とある歌い手さんの昔々のアルバムを聴いている。当時から正直言うと、私はこの歌い手さんの作る音楽についていききれていなくて、何となく置いてきぼり感を覚えていた。それは実は今もそう。 でも何だろう。当時から今日というこの日まで、歌い続け作り続けているって、やっぱりすごいことだよな、と。そんなことを改めて思うのだ。 どんなことであっても、し続けること。何年も何十年も続けること。そのことによって降り積もるものというのが、あるのだよなぁと。しみじみ感じ入る。 恩師が、ひょんな理由から教師になった、その日からずっと教師という仕事を続けた先生の歩いた後には、間違いなく先生でしか歩けなかった道があって。その道筋を頼りに歩く、生徒たちが間違いなくいて。そう、間違いなくいて、道はいつのまにか踏みしだかれて確かな道に変ってゆく。その道がもう、誰によって最初切り開かれたかなんて忘れ去られたとしても。道はそこに、在り続ける。 もちろん、誰も通らなくなった道はいつか雑草に覆い尽くされることもあろう。でも、細々とでも誰かがその道を使い続けること、或いは、誰かが或る日その道を草を分け歩き始めればまた、道は現れる。全く道でなかった場所よりずっと、歩きやすい道として立ち現われる。 不思議だ。続けるという行為によって生み出されるそれら。確かな痕跡。続けることでしか生まれ得ぬものたち。
First Love 初恋、というドラマを観た。最初観た時は演じ手さんたちに入り込みすぎて気づけなかったことたちに、二度目に気づく。これらの映像を貯め続けるのにどれくらいの時間が必要だったんだろうなぁ、なんて、そのことに驚嘆する。いったいいつから、これを作ろうと心構えていたのだろうこの監督さんは、と。 いや、もちろん、いろんな映像を探し出したのかもしれないけれども、その探し出す力、呼び寄せる力もまた、そのひとの力なんだと最近私はそう思う。
私は決して作り得ないものをたとえば家人が作るように。私は自分の写真以外を自分の写真集に入れる気がしない。まったくもってしない。アーカイブを探ろうなんてこれっぽっちもその気にならない。 でも、アーカイブをどう使うか、は、作り手次第なのだということを、家人の背中を見ていて思う。それがスパイスになり得ることを、だから、彼を通して私は知ってはいる。彼の作り出す写真集には夥しい数の、他者による写真や資料が添えられている。それによって彼の写真集は骨太になり、評価され、「彼の」写真集として世界的に受け入れられてもいるのだから。 私のやり方の方が、意固地なんだろう、とも思う。 そう言ってはみるが、私はそんな意固地さを変えるつもりはまったくなく。死ぬ迄こうしていくんだろう、とも思っている。 |
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