2022年09月11日(日) |
息子と肉じゃがを作った。息子は台所に立ちたがる。男の子なのにどうしてこんなに立ちたがるのだろうと不思議に思った瞬間、自分の中にそういう差別的な意識が根付いているのだということにぶつかり、げんなり。男の子も女の子も別に関係ないだろうに、と思うのに、かえりみれば自分が付き合ってきた男たちはみな、台所に立ちたがらないひとたちだったということにも気づきさらにげんなり。唯一台所に立つことができた男性は、母子家庭に育った大学時代につきあったひとだったなぁとぼんやり思い出す。 まぁそんなことは置いておいて、息子がせっかく台所に立ってお手伝いに励もうとしているというのに、私はなぜかいらいら。何でもやりっぱなしで平気な彼に、キレかける始末。何やってんだ自分。 でも。息子よ。じゃがいもの皮をピーラーで剥きながら、カウンターの向こうにまで皮を飛ばしても平気、というのはどうかと思う。ワンコがカウンターの向こうで興奮してしまっている。いや、それはいいとしても、すべて剥き終えた後で片付けるということを覚えようよ、君。やったらやりっぱなし、というのは美しくない。 それから、すぐいじけるのもやめようよ。「どうせ僕なんか」という台詞を聞いていると私はさらにいらいらしてくる。昔私もしょっちゅうそう思ったから気持ちが分かってしまう。気持ちが痛いほど分かるのに、いらっとする自分がいる。それは何故か。どうせ僕なんかどうせ私なんかという台詞が産み出すプラスは何もないからだ。いいことがなにもないどころか、悪い「気」を生んでしまう。それは自分自身にもよくない。もちろん周りにもよろしくない。 もし台所にそんなに嬉しそうに立とうとするのなら、すべてを楽しめ。そして美しくやりとげなさい。それが、台所に立つ時のコツです。母は言い切ります。楽しめないなら台所になんて立つな。あと何度も言うけど片付けができないのは言語道断。片付けることができてはじめて、ようやっと料理は完了するのだから。 息子を寝かしつけしばらくしてから、私もちょっと、いやかなり、きつかったよな、と反省する夜更け。手紙でも書こうかしらんとも思う。ちっとも褒めてあげられなかった今日の自分を、ちゃんと謝らないといけない、と思う。そうだ、手紙を書こう。息子へ。
息子を寝かしつけてからは、ひたすら来月初めの個展の準備に明け暮れる。今夜はプリントをひたすら貼りパネにセットする作業。延々とそれを続けていると、時折気持ちがくじけそうになる時がある。私は一体何をしているのか、この作業に終わりはあるのか、等々。思い始めると途方に暮れる。ひとり作業は楽だけれど、時々こういう行き詰まりがある。 思いついてNに電話をする。体調どお?と。6月末に手術をして、夏を越えようとしている。いろいろバランスが崩れ、そして落ち着いてくる頃合い。彼女がこの数か月でぐんと心を成長させたのが手に取るように伝わって来る。受話器越しの彼女の声に、逞しさが加わってきたなと感じ、何だかとても嬉しくなる。「姐さんに一歩また近づいたのかなって思うとすごく元気出るんだよね」と照れ臭そうに笑うN。その声を聴きながら、いやいや励まされるのはこちらの方だよ、と思う。姐さんの28年目にはとてもじゃないが追いつかないけど、だてに私も17年過ごしてないんだなって時々思ったりするんだ、へへへ、とさらに笑いながら言う彼女に、うんうん、と私も頷く。時薬というのは本当に、あるのだと思う。
そういえば、今夕ワンコの散歩に息子と出掛けた時、クロアゲハの幼虫を二匹見つけた。こんな季節に幼虫が、と思って思わず葉っぱをそっと摘む。ビニール袋に入れて持ち帰り、虫籠を用意する。「母ちゃん、もうこの子たちウンチしてる!」と息子が笑っている。クロアゲハ、今度は二匹ともちゃんと、羽化を成功させてやりたい。 |
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