ささやかな日々

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2022年09月06日(火) 
今朝の日の出は実に劇的だった。思わず息子を呼んでしまうくらいに、美しく劇的だった。
重たい雨雲が天空をずっしりと覆っていた。でも地平線は雲が割れていて、だから朝焼けがくっきりと見て取れた。今朝も写真を撮ろうとベランダに出てシャッターを切って、そうして部屋に戻った途端。
雨がざあっと降って来たのだ。
太陽が地平線の雲の割れ目からくっきりと見てとれている。その太陽が雨筋をきらきらと照らす。黄金色の雨がそこにあった。
ああこんな美しい光景が世界にはまだあるのだなぁと思った。私がまだまだ知らない、出会っていない世界の姿。

K先生に手紙を書いたり、友人にブレスを編んだり。同時に、搬入迄一か月を切った個展の準備に追われたり。正直あまり余裕がなかった。一度立ち止まったらばたんといきそうな気配も微妙にあって、だから、ただただ目の前に現れる事たちを片っ端から片づけていた、そんな日々だった。
当然日記を書く余力もなく。次から次に私は忘れていった。だから、書けること、今ぱっと思い出せることといったら、先に書いたことたちくらいの程度だ。

昔。まだ解離がそこまで酷くなかった頃。
私は「忘れる」ことができなくて、苦しんでいた。こんな些細なことと他人が思うことたちにまで、片っ端から過敏に反応し、足掻いていた。「忘れる」ことができたらいいのに、と真剣に思い悩むくらい、私は何もかもに反応し、記憶し、もう背負いきれなくなっていた。
その時思ったものだ。「忘れる」というのは人間に与えられた、生き延びるために必要な才能のひとつに違いない、と。
解離が徐々に徐々に酷くなり、気づけば解離性健忘が顕著になり。そうして私は今度、正反対の、「覚えている」ことができない状態になってしまった。次から次に忘れてしまう、失ってしまう。足元が不安定極まりない、ふわふわしたような状態。
私にはもう、「今ここ」しかなくなってしまった。

この両極をそれぞれに味わってみて、思う。何事も「適度」って大事なんだな、と。適度に忘れ、適度に覚えている。この絶妙なバランスが、生きてゆくうえでとても大事なのだな、と。
そういえば珈琲も紅茶も。ミルクを入れ過ぎれば珈琲の味が台無しになるし、砂糖を入れ過ぎればそれはそれで別の飲み物のようになってしまうし。ここでも、「適度」が、美味しくいただくポイントだったりして。
「適度」って、生きていくうえでとても大切なポイント。


浅岡忍 HOMEMAIL

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