ささやかな日々

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2022年05月23日(月) 
病葉を見つけてしまった。うどん粉病だ。充分気を付けてやっていたつもりだったのに。ひとつの薔薇のプランターの前で途方に暮れる。いや、途方に暮れている暇はないと気づき、急いで病葉を丁寧に摘む。これ以上拡がりませんように。願いながら。
今日はアートセラピー講師の日。今日使う絵具と絵筆を忘れないよう鞄の中を確認して、朝の用事を済ませてから出掛ける。自転車で走り出すと、燦々と降り注ぐ陽射しが暑いくらいで、もしこれで北風が吹いてなかったら私は汗だくになっているんじゃないかと思えるくらい。北風がこんなに気持ちいいとは。少し風が強いなと思いながら走る。明るい日差しの中で見やる街景はいつだって色鮮やかで、ちょっと気後れしてしまう。モノクロ世界の住人でいた時間が長くあったせいなのか、それとももともと私がこの世界の異物なのか、それはよく分からないけれど。
昔この辺りには十以上の川が流れていたんだとか。その川を利用して材木問屋が栄えたんだとか。いまだその名残の残るところも街には残っている。その間をひょいひょい走りながら、施設に向かう。
やっぱり自分は自転車がいっとう好きなのだなと走りながら思う。この適当な速度と、それから風を直に切って走ることのできる車体と。裏道に入ると、途端に生活の匂いが色濃く現れる。この辺りの家々は犇めいて建っている。門構えというものがほぼない。いや、違う、私が生まれ育った町のような門構えというものがほぼ、ない。表札がひょいと立っていていきなり玄関がある。昔は、これじゃあ玄関開けたらいきなり道路で何だか落ち着かないなと思ったものだった。
クリーニングの下請け工場の脇を通り、公園を過ぎ、もう閉店して長い時間が経つのだろう食べ物屋の脇を通り過ぎ、そうして施設に辿り着く。この間綺麗に咲き誇っていた花々は、今日はもうだいぶ草臥れており。花も終わりなのだなと知る。その代わり夏野菜の苗がぐいぐい育っているところ。隣の大家さんの庭から、八兵衛の、メェェと鳴く声が響いてくる。メェェメェェメェェ。今日の八兵衛はご機嫌なのか、やたらに鳴いている。
今日のテーマは、なりたい自分の心の形、だ。こんな自分になりたいな、と思える、その自分の心のありよう、その形、を、水彩絵の具で表現してもらう。「形のないものを形にするのって一番難しい」。Yさんがぼそっと溢す。ほんと、そうだよね、と私も応じる。だから形に表すにはちゃんと見つめてあげないといけない。ふだん見つめてない心をちゃんと見つめてあげないと描くことはできない。この時間だけでいいから、ちょっと自分の心と向き合ってみて。一番年長のSさんが困った顔をしている。
N君は象徴的な形を幾つか、細筆で描き始めた。握り合う手や拳、メビウスの輪など。その隣のKさんは、紙一面を水色で塗り始めた。Yさんは、ちょっと考えてから、紙の中央に丸い形を描き始める。MちゃんはMちゃんで、私ピンクと水色の組み合わせ大好きなのと言いながらその色を使って描き始める。めいめいの形。めいめいの色がそこに在る。
穏やか海みたいなそんな心の有様だったらいいなぁという気持ちを込めて、通い慣れた湘南の海を描いたというKKさん。小さな犬とヒトガタも描かれていた。もうちょっと全体的に明るくしたかったんですけど気づいたらこの色になってました、とも。YYくんは、僕ボディビルダーになりたいんです。この病気も卒業して、筋肉むきむきになって、もうこういう僕とも決別して。だからシックスパックならぬテンパックくらいにはなりたいなと思うんです。ニコニコ笑いながらそう話してくれる。海パンを逆さから見ると日本を代表する富士山になるんですよ、と言い出すのでつい笑ってしまう。Sさんは、僕はね、この裏の公園かここから見える花壇か、そこが一番落ち着くの、だから描くならそこしかないの、と説明してくれる。N君は、僕、子どもの頃いつも父親からお前は絵が下手だって言われてて、たとえば絵の宿題を家でやってると、こんな絵じゃだめだ!って勝手に描き直されてしまう、自分の絵じゃない父親が描いた絵を持って学校行かなくちゃならなくて、すごいトラウマなんです、絵具。と、打ち明けてくれた。だから僕、絵具見た瞬間、あああ、ってなりました。と苦笑しながら。「でも、描き始めたら、結構描けるものですね」と、どもりながら話してくれる。Yさんは、描き出したらこういう形になっていた、と話してくれた。中心のある、光り輝く何か。きっとYさんは、今、なりたい自分にとても近いところにいるんだな、と絵を見て感じる。
もう時間も終わりに近づいた頃、メンバーのひとり、D君がふらふらになりながら現れた。ああ、飲んじゃってる、と、それが明らかな千鳥足で、ついでに顔面から出血している。どうしたの、だいじょうぶ?とみんなが言う。でも、D君はどうも、自分が怪我したことも自覚してないらしく。え、何?とふらふらしている。そういえば前回も彼は、このくらいの時間に唐突に現れたな、と思い出す。この前も飲んでいたっけ。お酒の匂いがしたんだった、とそのことも思い出す。窓の外、八兵衛のメェェと鳴く声が大きく響く。

いつか。いつか、こんな日があったねと、彼らにとってここで過ごした日々が過去になる日が来ますように、と、私は心の中、祈る。


浅岡忍 HOMEMAIL

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