ささやかな日々

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2021年06月08日(火) 
何故あなたは朝の写真は撮っても夕暮れの写真は撮らないの、と訊かれた。訊かれてまず単純に、夕暮れに興味がない自分に思い至った。いや、夕焼けは好きだ。見るのは好きだ。植木の水やりをしながらよく眺める。犬の散歩をしながらも。でも、写真に撮ろうとはあまり思わない。もちろんたまに、雲の様子が面白かったりしてカメラを向けることはある。でも、朝を写すように定点観測を毎日しようとは全く思わない。
一日の終わりにあまり興味がない。夕暮れあたりから真夜中にかけて、私はじっと朝を待っている。一日が終わり、そしてまた新しい一日が始まる、始まると感じられるその瞬間を、じっと、ただじっと息を詰めて待っている。そんな気がする。
私は夜眠るのが本当に下手だ。横になること自体に拒絶反応がある。被害に遭って以来、無防備な格好になることに対して強い恐怖を覚える。24時間365日、戦闘態勢でいないと安心できない。だから、町の灯がひとつ、またひとつ消えてゆく夜という時間を、私はじっと、自分の場所から見つめている。
夜に対して私は或る種、傍観者だ。観察者だ。いつも。
まだ風呂場暗室をよくやっていた頃、その時間はいつも、夜だった。ふつうのひとたちが夕飯を食べるあたりの時間から暗室に立て籠り、闇が白み始めるまで、その作業は続いた。ふうっと息をつく頃には、たいてい夜明けだった。そして私は安心するのだ。ああ無事夜をまたひとつ越えられた、と。
朝はある瞬間唐突に始まる。東の地平線が徐々に橙に膨らみ始めたと思うと、チチ、チチチと鳥の声が始まる。その囀りが大きくなるに従って橙も大きく膨らみ、やがて割れる。太陽が昇り始める。昇り始めるとそれはあっという間に空に張り付く。
いや、話がずいぶん逸れた。つまり、私にとって夕暮れから夜にかけては、越えられるかどうかと自分に対し不安を覚える時間帯で、夕暮れはいつだって美しいけれども、それを写真に撮る、という意識はない、という、そういうことだ。
それに対して朝は。ああようやく夜を越えた、朝だ、と、いつもほっとする。そしてじっと朝焼けを見つめる。その時間が、私には必要で、大切なのだ。
今日も朝を迎えられた、と、ほっとしながらシャッターを切る。ひとつの私の大事な儀式。私の合図。さあ一日を始めよう、という合図。
そんな気が、する。

今日は整骨院に行く日で。新宿を越えてあと3つ駅を下れば、というところで意識が遠のいた。すべての音が消えた。車窓の景色は変わらず流れ続けている。でも私はたぶん、そこで解離したんだと思う。流れ続ける景色を音もなく見つめていた。まるで無声映画でも見るかのように。
そしてはっと気づいたら、30分も乗り越えており。慌てて整骨院に電話し詫びる。予約取り直すことできますか、とおずおず尋ねると、11時に来てね、と言われる。携帯にむかって何度も頭を下げ、切る。
解離が強いと、よくこういうドジをやらかす。他人に迷惑かけない範囲でなら構わないけど、今日のようなのはほんとにこまりもの。

渦巻くニュースをちらほら見聞きする。それだけでしんどくなる。どうしてこうも不誠実で無責任な言葉や行動を世の大人は繰り返すのだろう。子供たちは、若者たちはきっとそれをじっと見つめている。そして似通った場面に出くわせば、かつて見た光景の中から選んで真似をするに違いない。繰り返されてゆく無責任さ、不誠実さ。そんなの、嫌だ。
いい年をした大人になった今、自分を省み、思う。生きて在る自分のその様に、責任を持てるよう、誠実であれるよう、ただそれだけを、思う。
しっかり生きろ、自分。


浅岡忍 HOMEMAIL

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