| 2021年05月18日(火) |
早朝4時半。東の空を見やれば、ちょうど日が昇ってきたところで。雲がぶわっと波立っており。うわぁ久しぶりに好みの空だ、と声に出して言ってしまうほど。早速カメラを持ってベランダに出る。ひんやりした、でも、ちょっと湿っぽい大気。鳥たちの囀りもすでに始まっており。ソプラノの、明るい囀りがあたりに響き渡っている。
K弁護士に久しぶりに会いに行った。用事があって行ったのだけれど、もう会った瞬間「久しぶりー!」と手を振り合っていた。元気そうでよかった、変わらない笑顔に会えてよかった、と心底思った。 K先生が、自分が担当した加害者とは文通していたりした過去を聞いた。弁護を担当した人たちに「服役先が決まったら連絡頂戴ね」と必ず伝えた、と。いや、服役先を弁護士さえ教えてもらえないこの国の仕組みにまずびっくりしたけれど、先生のように服役後の彼らと文通する弁護士なんてほとんどいないことにも驚きだ。私が文通している受刑者さんたちも言っていた、用事があって自分の弁護を担当してくれた弁護士に連絡しても一切返事が返ってきた試しがない、と。おかしな話だ。 少年院や刑務所にいる間が大事なのは当然だが、本当に大切なのは、その後、だと私は思う。出所した後だ、と。社会に戻ってから、だと。そこで糸の切れた風船みたいな状態になってしまったら、迷子になっていずれ再犯に追い込まれるのは目に見えている。 この仕組みを変えていかない限り、厳罰化だなんだとしたって、犯罪は止まないと私は思う。もっと「その後」に関わっていかないとだめだ、と。 そして、「その後」に関わるべきなのは加害者にだけじゃない、被害者のその後も放置しちゃいけない。被害のその後の方が、ずっとつらく、長い。ヘルプがもっともっと、必要だ。 そんな話を延々、二時間近くぺちゃくちゃ喋っていた。「早くコロナどうにかなってほしいよねぇ」と挟みながら。
帰宅途中で、ある俳優さんが亡くなられたことを知らせるニュースを見かける。ああ、Sちゃんパパ亡くなったのか、私の父母よりずっと若いのに、そうか、と、流れ飛ぶ車窓の景色をぼんやり見やりながら思った。 高校時代、隣のクラスだったSちゃんとそのパパのエピソードを、同級生の女の子たちがあれやこれや喋っていたのがありありと思い出される。どれだけ子煩悩で、かわいいパパか、と、彼女たちは延々喋っていた。当時私は、ほとんど周りの人間たちと喋らない生活を続けていて、だから、いつも、聞き役だった。相槌さえ打たず、ただ、ふんふん、と頷きながら聞くばかりだった。そんな私にさえ、Sちゃんパパのたくさんの噂話は、鮮やかに残っている。そのくらい、SちゃんパパとSちゃんのエピソードは微笑ましく、羨ましくなるものばかりだった。聞きながら、本当に家族というのはそれぞれなのだなと思ったことを思い出す。 当時私は、機能不全家族という言葉やアダルトチルドレンという言葉にようやく巡り合った頃だった。自分の家、家族の有様に疑問を持ち、その状態に息切れし、窒息し、何とかこの状態を脱することはできないのかと、溺れ死にかけていた。うちはうち、よその家はよその家、と私の父母は必ず言った。よそがこうだからって何、関係ない、と。 ネグレクトと過干渉を繰り返す親たちだった。その怒涛のような正反対の波に揉まれ、私も弟もあっぷあっぷしていた。もう溺れかけていた。弟はそうして家を飛び出し、残された私はもはや沈黙した。そうしかできなかった。 拒食症に陥ったのもその頃だった。 いや、今思い出すと、何ともいえない乾いた感じが浮かんでくる。がさがさと乾いた何か。潤いなんて一滴もない、乾ききったざらざらがさがさ感。まだ、解決しきってないものがそのまま、かさぶたになってしまったかのような、そんな感じ。 家族というものが10あれば、まさに十人十色。家族の数だけ色も違う、質も違う、何もかもが異なる。家族は密室で、これほど恐ろしい密室も他にはない、と、私は思う。
夜、息子がぎゃぁぎゃあ文句を言いながら宿題をしている。それに対し家人が「そんなに文句言うならやるな!もうやめろ!」と文句を言う。私は、どっちもどっちだ、と思う。文句言いながらでもやるだけマシだと思うし、そもそも息子に文句を言うなら勉強見てやれよ、スマホでゲームなんてしながら文句言うなよ、と私は思う。 ほんと、どっちもどっち。
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