ささやかな日々

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2020年12月06日(日) 
眠りが浅く短い日が続いている。そのおかげで身体が痛む。処方されている痛み止めを飲みながら過ごす日々。

挿し木ばかりを集めているプランター、そろそろごっそり植え替えてやらないといけない。そう思いながら今日も過ぎてしまった。明日こそは。みんな元気に育ってくれているのだから今のうちに。
息子のトマトは毎日一個くらいが真っ赤になっており。息子がそれを摘んで食べる。ぱくんと食べる。トマト大好きっ子の息子には至極ご馳走に違いない。いつもにんまりした表情で食している。ユリイカが次々葉を落としてしまって、どうしたものかと思っていたのだが、よく枝を見るとちゃんと新芽も出ており。これなら大丈夫かなと様子を見ている。ホワイトクリスマスもベビーロマンティカも蕾を付けており、この寒空の下でその蕾を少しずつ少しずつ膨らませている。アメリカンブルーはもう大丈夫だろう、日の光に向かって手を伸ばす赤子のように無邪気に、真っ直ぐに、枝葉を伸ばしている。

生きているといろんなことがあるなと思っているけれど、それにしたっていろんなことがありすぎだろと最近げんなりしていたりする。次から次に私の人生よくもまぁ!と呆れているというのが本音かもしれない。少しは、何もない、という状態に退屈してしまいたい。まぁそれは、贅沢な愚痴なんだろうと思うけれども。

友人が死んだ。孤独死だった。死後一週間近くして見つかったらしい。ほぼ餓死と聞いた。告別式に出てその帰り道、気づいた。ああ、明日はYの命日だ、と。友人らは何を思いながら死んでいったのだろう。知る由もないけれど、それでも考えてしまう。
Yが飛び降りた時。小さく新聞記事になった。三十五年前のこと。私はあの記事を繰り返し繰り返し読んだ。その何処にも、Yの匂いはなかった。Yの気配さえなかった。淡々と活字だけが並んで、それはYの表層さえ伝えていなかった。そういうものなのだと受け容れるまでに少し時間がかかったのを覚えている。
そしてその日はまた別の友人の誕生日でもあり。生と死は循環しているのだなあ、と、つくづく思ったものだった。

過日息子と映画を観に行った際、息子がエンドロールで流れた歌に合わせて絶唱していたのを思い出す。私もあんなふうに、手放しで絶唱してみたいなあと。そんなことを今ふと思う。そうしたら諸々の憂さも吹き飛ばしてしまえそうな気がするんだ。声の力って、そのくらいあるから。

いろんなものがこの身体に圧し掛かってきているようで。少し、しんどい。


浅岡忍 HOMEMAIL

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