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ゲンロン12を読みながら

2021年09月20日(月)

ゲンロン12を読みながら春と修羅の序の有機交流電燈?のこととか、自分がネットに接続し始めたときのことを思い返していた。家族的類似性、言語ゲーム、共同体の移動、これらを自分自身のインターネット上でのクラスタの移動と重ねて考えていた。

私はたしかネット始めて1年ちょいで詩のクラスタに流れ着いた。そして書くものによって少しずつ移動し、今はおそらくちょうどいい位相にたどりついている。現実に参加できる場所にもたどりつくことができた。それこそ東浩紀さんがシラスかどっかで寸劇めいて喋ってた「あれ?もしかして実はおまえもわれわれなのでは?」的拡張をされ「家族」に取り入れられた。失礼を承知でいえば、ちょうどいい具合に、わたしのように書けない読めない人が揃った「家族」にいる気がする。そのサジェストの飛び具合も、目盛りをひとつずつずらすとか、天秤に1gずつ載せるとかではなく、とても大雑把で、なんとなく変なもの書いている人がいるから誘い、誘われた人間はダイナミックにドーンと行ってしまうとそこにはちょうどいい人たちがいるという感じだった。なんでそうなるのかは不思議で仕方がない。最初から景色の中で見えているものと探しているものが似ているのかもしれない。緑の灯を探している同士だから勘違いしてしまうのかも、でもそれで「しっくりくる」のはなぜだろうか。私がそもそもそこまで深く考えていなかった(子供だった)からだろう、か。

微妙にわかってない、リズム感がない、決めきれない、トーンを統一できないといった点や、出自がそこまで本好きじゃないというか、マッチングアプリのコミュニティにある浅いサブカルみたいな人が多いイメージ。亜詩人とでもいうのか、石川啄木は詩人は偽病人とかじゃダメだみたいな事言ってた気がするが、ふつうの人にもピンキリあって言語的な体幹の弱い人も日常送ったり詩を書いたりする分には充分すぎるくらいふつうなのである。

自分でも昔から書いて投稿すると自分の位置が少しずつ移動する事を不思議に思っていた。顕微鏡の微生物が繊毛で凶雑物をかき分けて移動していくように、もっと無生物的な、原子のようなものが、お互いをつなぐ手で反動をつけてばいーんと別のところに飛んで行くようなイメージに近かった。

あとはパチンコのようにも思う。釘に弾かれて然るべき場所に落ちていく。重力を意識する縦の非情な疎外的な世界をイメージすれば(例えば反社会性パーソナリティ障害の人の人生?)、そのようなふうにすべては釘にしか見えないし、へそに入って図柄を回さない限り、生きることに価値を見出せない(しかもそれで当たらないといけないと思っているかもしれない、しかも確変で)。

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nemaru [MAIL]

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