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古谷実「ぼくといっしょ」思い出しメモ

2020年10月13日(火)

◆すぐ夫といく夫

古谷実「僕といっしょ」は上京してホームレスになった中学生、小学生、イトキンが床屋に引き取られて少し闘って、また上野にもどる話である。

いまとなってはほとんど思い出せないが、主人公の兄弟の名前は、兄のほうが「すぐ夫」、弟が「いく夫」である。名字は…さきさか、だったかな。

このネーミングセンス、彼らの「親」はどう考えて、なにを思ってつけたのだろうか。すぐ夫は中学三年生(相当)?で、いく夫が小学三年生(だったはず)なので、四、五年は空いてるはずのだ。先に「すぐ」をつけて、四、五年後に「いく」をつける。「すぐ」をつけたあとの「いく」は決定事項のようでいて、もう別れるのが決まっている男を恨んでつけたようでもある。こんな、あてこすりのようにして子供の兄弟の名前を、四、五年かけて名付けている意味について考えだすと、わけがわからなくなってくるのだ。

すぐ夫とイトキンは、防御と隙の関係である。女性観や優しさの発想が真逆で、父性的なのがすぐ夫、母性的なのがイトキンという感じである。すぐ夫はバカで自尊心もないが、いく夫を守ろうという気持ちだけはある。ある意味サルチネスに受け継がれた部分でもある。古谷作品には人との関係が希薄なふつー寄りの人が祈ったり願うタイプの作品と、困難なバカな兄の作品が8:3ぐらいの割合である気がする。

たしかマネキンみたいなサイボーグのすぐ夫が被弾して頭部や腕を撃ち砕かれながら、うしろのいく夫を守ってやっているというイメージシーンが出てくるが、あれは名前としての「すぐ」に対し、「いく」はまだ単体ではありえる名前だが、「すぐいく」と繋げられたときには甚だ迷惑でしかないという関係をそのまま表している。そしてすぐ夫も本来「優」の訓読みでしかないのに、「いく」のためにシモに引き寄せられるという悲しい関係である。このような関係を仕掛けた両親というものに考えというものがなかったのだろうか、考えがなかったにしても、さきにすぐとつけた時点で次の子が決まっているという意味では考えていないはずがない気もする。

愛していたのか、していなかったのか。いや〜、してないだろうな。

◆イトキンの母

中盤、偶然イトキンの母らしき人が出てきて、イトキンとはニアミスのままふたりは会えないのだが、その母の行動原理が不可解すぎて、なんかこういう人がすぐ夫やいく夫を産んだと思うと納得できるかもしれない。

たしか話はこうだ。すぐ夫といく夫が屋台でなんか買った。買った人の顔をみたらイトキンの女版だった。絶対イトキンのかーちゃんだ!と確信し、イトキンを連れていくが、イトキンの母は公園の茂みの奥でホームレスとセックスしながら雄叫びをあげていた…という話だった。あの雄叫びをあげているのが、まったく他者を意識していない目には見えず、すぐ夫やいく夫をうっすら意識しているかのような気配があるような気がした。

イトキンの母は、何を考えているかはまったくわからないが、とにかく息子からは離れようと、逃げようとしていた。それだけは徹底していた。そして、そういった関係を壊そうとしていた。

◆いく夫の耳と散髪屋

すぐ夫といく夫とイトキン(ともうひとりイケメンがいた気がする)は川原の橋桁の下でホームレスとちょっと暮らしてた。ある日、河原で騒いでると、電車に乗っていた女子高生がそれを見ていて、その子の家が散髪屋だった。

女子高生がホームレスの中学生に人生について尋ねたかった。古谷実の世界では、全員がいきなり人生などについて語ってもいいことになっている(ラフな口調で哲学的?な対話ができる)のだ。

散髪屋だが、いく夫の耳(の上)は、毛がかかっていて、ずっと隠れている。

古谷実作品では悪い子供(世を恨んでいる子?)の耳の先はとんがっているのである。

いく夫はいくらかつらい思いをする。一瞬捨てられたり、一瞬で惚れた女に裏切られたりする。でも、最後まで見えない耳の先っちょは、最後まで尖ってなかったような気がするのだ。

◆親から何を預かったのかは思い出せない

最近つくづく思うのだが、親から何を預かったのだろうか。思考のフレームワークとかだろうか。話し合いで解決してこなかった家で生まれたり、ずっと物音に怯える家で暮らしてテレパシーで生きてるようになってしまったり、そういった世界で、親から何を預かったのかはなかなか思い出せない。

稲中で、前野が自殺しに来た倒産したネジ工場のおやじのふりをしてボートに乗ろうとしたら井沢と神谷が相乗りしてきて神谷が「何やってんですか前野さん」と言った瞬間前野の変装が中学生がハゲヅラ被って顔に死相を表す線をマジックで引いてトレンチコートを羽織っただけの状態に戻るコマがある。

僕といっしょの冒頭と最終回でこの現象の逆が起こる。冒頭とは血の繋がってない義理の父親が「(母親の代わりに)お前らが死ねばよかったのに」と、すぐ夫といく夫に宣言するシーン。そして最終回は、すぐ夫といく夫(とイトキン)が、出て行った実家にもどり「ここは俺の家だ」と闘いを挑むシーン。

冒頭のシーンでは小さなコマで正座して向かい合う兄弟と義理の父親が横から描かれ、父親は痩せてみえる。イトキンの母とやってたホームレスのような体格。

だが、最終回では、父親の体格はとてもがっしりとしている。すぐ夫はいすくまり、いく夫は泣きじゃくる。均衡を破るのはイトキンだったし、すぐ夫を動かしたのもイトキンだった。殴れる人を連れていくこと。

ノリをぶち壊し、ノリに埋もれていく。ノリをぶち壊すのもイトキンで、ノリに埋もれるのもイトキンがいるから。最終回はそんな感じだった。最後、いく夫が「(床屋に)電話してくる」と言って、両手をひろげながら走っていく後ろ姿と、すぐ夫とイトキンが視線をはずしながら横並びで「ヘッ」って少し白けた顔(ボコボコ)をしているのが印象的だった。

すぐ夫にとっては戻ることは解放なのに、ふたりにはどうしようもなさが募るだけ。

◆育めるものがもう残り少ない

もう高校生に相当する年齢で、学校に通ったことがないふたり。すぐ夫には野球選手が羨む筋力があることが示唆されているが、作中では、これが人生をどうよくするかはわからないまま終わっている。

◆どうしようもなさ

古谷作品では、少しずつ横顔が増え始め、首が太くなり始める。考える脳と、悪魔を意味する耳と、視線をいちどきに捉える断面として真横のアングルが増えたのか、それとも、わにとかげぎすで民家に突入する車を真上から捉えたように、稲中でしょっちゅう(岩下や神谷などの)女性の顔を崩して描いていたように、描けないということなのか。

あと、この頃「ぼくと一緒」からグリーンヒルの中盤まで続き、またヒミズの序盤やシガテラのゴミ箱にメモを捨てるシーンなんかにもみられるが、一コマで動作を3つぐらい同時に書き込むことがある。もしかしたら稲中からあるかもしれないが。イトキンが寄ってくるシーンとか、赤田が走ってこけるシーンとか、なんかそのへんで一コマで2、3人分の残像が書かれて一連の動きが表されたりしている。おそらくこの表現があるあいだはシリアスではないということの指標みたいになるんじゃないかと勝手に思ってる。


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nemaru [MAIL]

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