てくてくミーハー道場
もくじ|前回てくてく|次回てくてく
2019年03月18日(月) |
青蛾館創立35周年記念公演『毛皮のマリー』(東京芸術劇場 シアターウエスト) |
オリジナルバージョンと未発表ラ・ママバージョンを昨日今日連荘で観に行きました。
本当は加納幸和御大が出演する昨日のオリジナルバージョンだけにしようかと思ってたんですが、それを観たら俄然ラ・ママ版も観たくなって、急遽当日券で拝見。
ラストシーンまでは脚本は同じで、欣也(今回のパンフレットでは役名は「美少年」)が自分の出生を知るところ以降が違ってた。
で、衝撃のラ・ママ版の終わり方に新鮮味はあったが、こういうのはスタンダードになって残ることはなさそうだな、という感想。
やっぱりオリジナル版の方が収まりが良いっていうか、物語の主題がはっきりしてるっていうか。
だけど、ぼくにとって一番衝撃というか嬉しかったことは、中村中というすごく素敵な“女優”に出会えたこと。
シンガーソングライターが本職だと思ってたんですが、舞台もけっこうやってるんだね。
実はオリジナル版で紋白(今回のパンフレットでは「美少女」)を演ったのが日出郎で、「ちょっと待てよ?この紋白って役は“女”なんだよな?この話って男とおかま(とあえて書きます)しか出てこない話だけど、紋白は女だから、それでマリーに嫌われるんだよね?」と若干混乱。
だって、日出郎くんが、他のどの出演者(マリー役ののぐち和美除く)よりも“おかま”然としてるんだもの。
わけわからんくなってしまった。
そこへ中村中ちゃんが紋白で登場したもんだから、「ああよかった。ぼくの認識は間違ってなかった」と安堵(いや、いろいろ間違ってるぞ?)
紋白は、マリーが精魂込めて欣也を「一人前の男娼」に育て上げようとする温室の中へ入り込んだ、憎むべき“外界”からの闖入者であり、いらん“常識”を欣也に教え込むスノビズムの象徴のようなもの。とぼくは解釈しているのだが、その紋白を演じたのが、どちらのバージョンでも一番スノビズムから遠いところで生きている役者だっていうのがわけわからんくて趣深かった。
さて、『毛皮のマリー』は今年、どういうわけか次々に上演されます。
来月は“本家”美輪明宏センセイによる(多分)お耽美バージョン。
実は、ぼくがこれまで観た唯一の『毛皮のマリー』は、はるか大昔()の1994年に上演されたもので、いしだ壱成が欣也を演ってたんだからすごいだろ(誰に言ってんの?)
そのころすでに美輪サンはすっかりふくよかになっておられて、冒頭のマリーの入浴シーンに、まだ“心の目”でエンゲキを観る能力を持ち合わせていなかったぼくは「・・・」となったのを覚えている。
それに対する、いしだ壱成君の脚の白さ細さが、この後の欣也の運命を如実に示していたように思えてそそられました(オイ)
まさか壱成くんがあんなその後の人生を辿るとは(コラ)
対して、美輪サンが勇ましくもあでやかに“美輪道”を突き進んでいることを考えると、ぼくの不明を恥じるばかりです。
今はこんな話をしている場合ではない。(やっと気づいたか)
で、美輪バージョンの次には加納御大率いる花組芝居版が6月に上演される。
今回「醜女のマリー」を演じた加納さんが、自前の劇団では当然毛皮のマリーを演るわけですが、こちらももちろん一筋縄ではいかない演出でしょう。
実は前回(2015年)上演されたときには、行きたいと思いつつ観そびれてしまっているので、初見になります。浄瑠璃が入るので音楽的に面白くなりそうで期待しています。
とまあ、話がとっ散らかったけど、要するに一番言いたかったことは、
「中村中、良かったなあ」
ということです。
ここまで名前が出てこなかった役者たちについては、ごめん、特に語りたい人はいないのだが、何人かゾロゾロと出てくる“男娼”たちのうち、ピンヒールを履いていた人が二人いて(ほかの人たちは、派手なエロい女装をしてる割に、動き優先なのかほぼペタンコ靴だった)、そういうところにぼくはぐっと惹かれてしまうので、名前を覚えておけば良かったな。
男の肉体がピンヒールを履くときの苦痛はぼくも想像がつくので(ぼく自身、パンプスでさえ半日履いてると足指、かかと、ふくらはぎ、腰、頭まで痛みが満ちてくる)ムリは言わないが、その分、ピンヒールを履いてたそれだけでその努力を讃えたいと思った。
あっそうだ、『キンキーブーツ』のチケット手配しないと(結局話がとっ散らかるな)
|