てくてくミーハー道場

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2018年10月23日(火) 『二十日鼠と人間』(東京グローブ座)

チラシ見て、スタインベックかあ・・・観たいなぁと漠然と思っててジャニーズ舞台(っていう言い方、近年では失礼かな?)と気づかなかった。

ミヤケン(三宅健)主演でしたが、彼以外にはバーターおらず(ジャニへの偏見が近ごろキツいぼく)

やまじー(山路和弘)や藤木孝さんなど、ぼく好みの渋い俳優さんも出演。

女優はかのまり(花乃まりあ)紅一点。

ほかの出演者は、知らないわけではないが、さほどたくさん観ている人たちではなかった。





内容は、「ザ・スタインベック」という感じの、アメリカ西部の埃っぽく無常感あふれる悲劇でした。

目端の利く主人公と“うすのろ”な相棒という取り合わせ、山本周五郎の傑作『さぶ』と激似じゃね?と観る前から思ってたんだが、スタインベックの方が30年近く早いですし、ストーリーも主題も全く別物なので、スタインベックも周五郎先生も無罪(?)です。

さて、そんな(どんな?)気分で観に行ったこのお芝居、登場人物の感情を過剰に表現しない、スマートな演出は鈴木裕美女史。

彼女の演出は、いつも上品というか粋というか。それでいてしっかりと主題が伝わってきて、ぼくは好きですねえ。

出てくる人間が、一人残らず無常感を抱えていて、「全員、さびしい」。

そのさびしさが悲劇を生むんだが、その悲しい結末も、実は最初から決まってた、そんな気がする冒頭の場面。

BGMも、ギターとバイオリンの生演奏で、機械的音響じゃない(もちろん役者はマイクなし)

手作り感満載の、ぬくもりのある良い舞台でした。



役者では、上に書いた、ぼくが知っている俳優さんたちももちろん良かったんですが、やはり「演劇男優賞とりそうな」(すぐ皮肉るんだから!)役・レニーを演じた章平君に心もってかれました。

難しい役を、見事に演じ切っていました。

あと、かのまり。

歌劇団の中では、周囲との比較もあってか(また口が悪いですねておどるさん)全然美人に見えなかったかのまりですが、こうして野郎の中にポン、と入ってくると、さすがに彼女の周囲だけ色彩が鮮やか。まさに「花が咲いたよう」なたたずまい。

決して照明のせい・・・では・・・ない。・・・はずだ(おいこら)

そこそこ綺麗で若いのに、むさい男しかいない村で一人ぼっち。しかも、そうではないのにビッチ呼ばわり。

たしかに、やさぐれる気持ちはわかる。

彼女の“最後”も可哀相だった。





ストーリーについて、柄にもなくまじめな感想を書くと、普通に考えたら、ジョージにとってレニーは足手まといでしかないのに、なんで、何のために一緒にいるのか、最初は不思議でしょうがなかったんだよね。

これが余計な頭の働く作者だったら、「よんどころない事情があって、ジョージはレニーを見捨てることができない」理由なんかをくっつけるんだろうけど、そういうのはこの作品には出てこない。

途中、ジョージがポロっと、

「あいつといると、自分が利口者のように思えてくる」

とスリムに漏らすシーンがあるんだけど、そんなこと()で、これまでの色々な厄介ごとが釣り合うのかなあ、なんて、人情というものを1ミリリットルも持ち合わせていないぼくなんかは考えてしまう。

だけど、最後に(大ネタバレ)レニーがいなくなってしまったこれからのジョージは、足枷がなくなってのびのびと生きていけるどころか、もう未来への希望も失って、周りのだらしない飲んだくれの日雇い労働者たちの一人になってしまうんじゃないか、と思わされる結末だった。

一週間、無気力に働いて、稼いだ給料を休みの日1日で酒と売春宿と博打で使い果たしちゃって、また一週間、無気力に働く。

ささやかな未来の夢のためにコツコツためるなんてことも、おそらくもうジョージはしないんだろうな、そんな風に思わせるラストシーンだった。

そうか。守るものがあるってことが、人間が生きてく上で何よりも幸せなことなんだ。

そう考えると、レニーが力加減をできずに二十日鼠をポケットの中で握り殺してしまうのと、ジョージがレニーを(ネタバレ)のとが、

「二十日鼠と人間」

てタイトルの意味なのか(勝手に納得)

深いなあ。(ほんとに、これで合ってるのかな?)


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