てくてくミーハー道場
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2016年04月24日(日) |
『四月花形歌舞伎』昼の部(明治座) |
歌舞伎座もだけど、明治座にも入口横にお稲荷さんがあって、ぼくは日本人の習性でいつもお詣りしてから入るんですが、今回はさらに何の気なしにコンビニで稲荷ずしを買ってから入りました。
キツネにつままれた?(こら)
「蘆屋道満大内鑑」葛の葉
キツネです(笑)
去年の暮れに安倍晴明神社を訪れて以来、初の「葛の葉」観劇。
感激ひとしおでありました(*^^*)
“信太狐”ゆかりのお芝居としては、1月にこのお芝居を観て感想も書いたのですが、全然言及してなかったなそういえば。
まあ、「葛の葉」ほど“そのもの”な感じじゃなかったからだが。
さて、ストーリーのことは今さら書く必要もないので、役者について。
七之助。
上々吉。
天性の身体能力と歌舞伎に対する真摯な想いとによる相乗効果で、このところの七之助の舞台は、観ていて本当に満足できる。
このままおかしなクセをつけずに(また余計なこと言う〜)スクスクと進んでほしいものである。
ほんのちょっとだけ気になった点があるといえば、ところどころものすごくフク(福助)に似ていたあたりか。
フクの現在の健康状態は不明だが、この役について指導するぐらいには快復してるのだろうか。
それとも、七之助本人がものすごくフクのこの役に心酔しているらしいので(from 筋書)、自然と似ちゃってるのだろうか(+遺伝子のせい)
この血筋の声が甲(カン)なのがぼくはちょっと気に入らないので、そこだけはあまり似ないでほしいと思ったのである。
梅枝。
これまたお行儀よく端正。
「すし屋」の弥助とお里、どっちもできそうだなあ。ここ数年歌舞伎をきちんと観てないから、やったことがあるのかどうか分からないけど、いつか観てみたい。
さて、この二人(というか、一人と一匹)の間に生まれた“童子”が後の安倍晴明なのですが、幼少時は「かかさまー、かかさまー」と母にうるさくまとわりつく(苦笑)普通の幼児。
これが成長するとああなる(って誰を思い浮かべた?)のね・・・シミジミ←何か勘違いしてますぞ?
「末広がり」
これって、お父さん(勘三郎)が一回しか上演してないの?
なんか、何回も観た気がするのだが。インパクトが強かったのかな。
それか「高杯」に似てるからか。
パパの当たり役をせがれ(勘九郎)がやります昼の部、というパターンでしたが、こっちは楽しく観られた。
やっぱ踊りに関しては天才だわ(ただし、パパは“神”)
なので、安心100%の勘九郎と亀蔵さんはおいといて(コラ)、ホープ(笑)の二人について。
国生。
口八丁で安物の唐傘を太郎冠者に売りつける万商人。こういう役こそがなかなか難しいのよね。丁寧にしっかりやってて好感が持てる。
またもやババァの思い出話になりますが、平成二年の浅草新春花形歌舞伎で「高杯」が出たときにぼくは初めて観たのですが、そのとき次郎冠者をやっていたのが当時の勘九郎、足駄売りをやっていたのが国生のパパ(橋之助)であった。
今やめちゃめちゃ貫禄がついたハッシーが、当時は若手も若手で、この足駄売りという軽妙な役に四苦八苦していたのが今では嘘のようだ。
何を言いたいかというと、せがれ、(当時の)パパより良かったぜ(おいっ!)
へへへ。
鶴松。
なぜかいつも贔屓目で見てしまう鶴松であるが、今回も可愛い(≧∇≦)←
太郎冠者が、それこそ赤ちゃんのころから彼女(お福さま)を見守っていて、その子が結婚するまでに成長したのか・・・あぁ、みたいな気持ちになるのも分かる、まんま箱入り娘であった。
「女殺油地獄」
実を申せばこれが今月の目玉。
だった。(←・・・?)
期待(と記憶)が偉大すぎましたかな。
というよくあるパターンであった。
特に菊坊(フルネームからまた“坊”に格下げ)
ああ、役になりきれていない。
こんな自分勝手で怠け者でキレやすい(それでいてとっても魅力的な)男を演じるには、まだまだ思い切りが足りないのかも知れない。が、それはそれとして、演技力もそこまで達してないのかと思われたのが意外というか残念であった。
まあ、素で与兵衛を演られたら、そんな役者はまず好きになれないが。
がんばって「どーしょーもないバカ男」を演じてはいるのだが、どうしても「優等生の菊ちゃん」が拭い去れてないのだった。
唯一、豊嶋屋に向かう辻(花道)で小兵衛と会話してるときのせりふの口調が仁左さまそっくりで、ここだけは良かった。きっと、細胞の隅々まで染み渡るぐらいお稽古したのであろう。
ただ、「浮かれ心中」の感想でも書いたが、世話物ってのは、上手に教科書を読めれば合格点がもらえる時代物と違って、ネイティブ江戸時代の人であるかのように演じられなくてはダメなのである。
菊坊も38歳。ぼくが歌舞伎を観始めた当時のカンクハト助(当時の勘九郎と八十助。後の勘三郎と三津五郎)よりもう年上なのである。もうちょっとがんばってほしい。てか、当時はかの天才二人も、菊吉じじいたちからは「まだまだだな」とか思われてたのかなあ。ぼくらは「もう最高!」と思って観てたんだけど。
そういや、ぼくが初めて観た「二人椀久」は仁左さま(当時、孝夫さん)×時蔵丈だったんだけど、隣に座ったおばさまが、「下手だわ」と一蹴してたっけな。
「富十郎と雀右衛門の足元にも及ばないわ」とおっしゃってた。
後にぼくもトミー&ジャック版を観て、「うーなるほど」とは思ったのだが、初見の「タカオサンメッチャキレイ!」(萬屋さんシカト←)の感激だけは上書きされなかったです。
平成の審美眼だ文句あっか。←オイ(怒)
あ、これは14日の日記に書けば良かった。
話は戻って、七之助はバリバリ良かったです(甘いぞ、お前)
だって本当に良かったんだもん。
お吉は色っぽく演じるべきか?(与兵衛のせりふ「不義になって貸してくだされ」を本気っぽく思わせるか否か)という命題がよく論じられますが、ぼくはその辺はぼかすべきだと思ってる。
少なくとも、お吉の方から与兵衛を“男”視してはいけないと思う。
その辺の、ある種のそっけなさ、いい意味での「上目線」が感じられて良かった。
そして、やはり七之助の武器(?)である身体能力によって、殺しの場面でも、本当に逃げ惑ってて油の樽を倒す、そしてつるりん、すってん、というダンドリが自然に見えた(そんなとこばっか気にするんじゃないよ!)
だって、人によっては、けっこうわざとらしいんですもの。これ以上いうのはよしますが。
そんなんはともかく、やはりこの芝居のメイン登場人物は、与兵衛とお吉のようでいて実は徳兵衛とおさわなのではないか。観るたびにそう思えてならない。
彼らの複雑な家族関係と、人格と愚かさのあやういバランス、誰にも「結局お前たちが悪い」と責める資格などないと思わせるやりきれない現実。
世の中がどんなに変わっても、いつ観ても、何度観ても、「なんでこんなにリアリティがあるの?」と唸らせられる名作。近松は天才だとしか思えない。
原作ではこの後、与兵衛は無事(?)借金を返して、改心したかのようにしゃーしゃーとお吉のお葬式に顔を出し、そこで犯行がばれて逮捕されるのだが、その時になんと「おれがこんなんなったのも全部お前ら(とは、徳兵衛とおさわのこと)のせいじゃ!」とトンでもないことをぬかして連行されていく、というびっくりな結末を迎える。
もし現代に与兵衛みたいな男がいたら、ネット上で「こいつは死刑!」の大合唱だろう。
ぼくはその場面までを上演した前進座公演を観たことがあるのだが、なるほど大歌舞伎じゃやらないはずだ、と逆に感心した。
近松は、当時の法と市民感情にきちんと折り合いをつけて終わらせてるわけなのだが、現実の一般市民と、芝居の観客としての市民とでは、与兵衛がやらかしたことに対する感情が乖離しているのが興味深い。
歌舞伎(とか文楽)では、与兵衛はなぜかピカレスクヒーローになっちゃってるんだもんな。
やはり、この殺人者ひとりを異常者扱いして「はい死刑」では済まされないという何かを、皆この事件(実際にあった事件らしい)に感じ取っているんだろう。
何度も書いてしまうが、本当に名作である。
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