てくてくミーハー道場
もくじ|前回てくてく|次回てくてく
2014年11月21日(金) |
『皆既食 Total Eclipse』(Bunkamuraシアターコクーン) |
「美しさは正義である」
これはランボーの詩の一節です。
嘘です。☆\(−−;)おい
ぼくの言葉です。
「美貌は正義だ」とぼくに思わせる舞台人と言えば、大地真央さんに代表される元ジェンヌが主ですが、今日、男優に対して初めて(意外!)思いました。
岡田将生。
“正義”を全身から発してました。
誤解してほしくないのは、舞台姿を初めて見る役者に対して「美貌」をほめると、
「じゃあ、演技力は大したことなかったんだね」
と早合点してしまう方がいそうなので、「それは違います」と念押ししておきます。
もちろん、藤原竜也(やっぱ引き合いに出すのね?)の芝居を初めて観た時のような衝撃はありませんでしたし、岡田君に対しても、その芝居力に唸ってしまうまでのことはなかったのですが、少なくとも、
「顔だけじゃん」
てことはなかったです。
ちなみに、彼の美しさは、顔立ちよりも立ち姿の方が際立っていました。
全身のバランスがいい。
それも、モデルみたいなカッコよさというよりも、すごく「ランボーっぽい」
ぼくはこのお話、ディカプリオ目当てに封切り当時に映画館で観ました。
冒頭シーンからドキドキが治まらなかったのを覚えています。
そんぐらい当時のディカプリオの魅惑的なことったら、『タイタニック』とか観てきゃーきゃー言ってるミーハー小娘共が実に浅はかに見えたほどです(いや、お前も充分ミーハーだよ?)
あの映画の中で、レオは本当に「ランボーっぽかった」
ちなみに、ぼくはアルチュール・ランボーが絶世の美少年だったに違いないなんて幻想は持ってません。
残ってる写真見ても、「まあ、少年だから、あどけない顔してるわな」てな冷静さ。←
つまり、ぼくが思う「ランボーっぽさ」ってのは、なんか、生意気で、根性曲がってて(オイ)、自尊心が異様に高くて、怠け者で、だけど、心の奥底に、どうしても自分自身を愛せない暗さを抱えている、そんな感じ。
そんな感じを、ディカプリオも、岡田君も、その若々しい身に、まとっていた。
劇中ランボーが、「ぼくはもう19歳だ。うかうかしてる間に、歳ばっかとっていく」みたいなことを言うシーンがある(ハゲのヴェルレーヌが30歳ってのにもびっくりだ)
一般人からすると「何言ってんだ!おめえ」て感じなんだけど、なんか、わかるんだよね。ランボーにとって、自分がもう19歳にもなったってことは、ひどい恐怖だと。
そういう、「ぼくは他人とは違う」みたいなことを平気で言っても「なるほどな」と思えるくらい、岡田君のランボーは美しかった。
映画を観る前の予習だったか、それより前にぼくが腐だったせいか忘れたけど、ランボーのことを調べたことがあって、結局ランボーがどういう人生の終わり方をしたかぼくはすでに知った後で映画を観た。
当時まだ青年だったディカプリオは一所懸命老けメイクをしてたが、映画の中で中年のランボーの顔を出したのは感心しなかった。
舞台はその点、ごまかせるからいいな。(ただし今回の舞台版では、老けたランボーは登場しない)
ロンドンでの有名な別れのくだりとか、ヴェルレーヌがランボーを撃っちゃうくだりとかも、事前に知ってたんだけど、蜷川さんの演出は「ここ、クライマックスだからね!観ててよ!」みたいな気負いがなく、シュシュシュッとストーリーは進んでいく。そういうとこ、良かったな。
ただ、ランボーとヴェルレーヌのキスが一回もないのが、肩透かしだった。(←腐め!!!!!!)
いや違うのよ(何が)、そういう、趣味的な希望ではなくて、わざとそういうシーンを避けたみたいに思えて、逆に気になったの。
そういうシーンを出さないことで、演出力を見せつけようとしたのか。
そういうシーンを出すと、下世話なワイドショーとかがそのシーンばっかり報道するのが目に見えてるから、嫌気がさしたのか。
どっちにしても、「わざと」出してない雰囲気が、逆に“気にしてる”感じがして、ひっかかったというか。
ま、最初に岡田君の“美しさ”に言及したからというわけではないんですが、正味、今回の舞台、99パーセントは生瀬(勝久)さんの芝居力でしたなあ。
ヴェルレーヌって、今生きてたら(いや、当時だって大概)最低最悪のダメ男。
身勝手ふしだらDV男。
どこがいいんだこんなハゲ(あのー、身体的特徴をディスるのは反則ですよ?)
わかっとる!(怒)←
だけど、本人は最上級の幸せ男。
傍目からは「破綻した人生」に見えるけれども、本人はそれなりの報いを受けながらも、自分にふさわしい以上の幸福を手にしたと言える。
フランス人の道徳観て、ほんま理解できんわ。(結局それかよ)
|