てくてくミーハー道場

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2013年02月10日(日) 『テイキングサイド〜ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日〜』(天王洲 銀河劇場)

題材は20世紀最大に重たい歴史的事実と関連している事件だが、作者が言わんとしているところは、時代やシチュエーションに関係なく、普遍的であり、現代に生きるぼくらにも、少なからず関係してくるものだ。



って、いきなりしかつめらしく書き出してしまったが、ほんとに、そんな、仰々しく考えるようなものじゃないとぼくは感じた。

そもそも、このサブタイトル、よくないと思う。観る人に先入観与えまくりだもの。

不明にしてぼくは知らないんですが、このサブタイトルってハーウッドの原作にもあったもの?

もし、今回の上演に際して日本側スタッフがつけたものだったら、「蛇足じゃないですか?」と言いたい。

「ヒトラー」という固有名詞に、どうしてもぼくたちは反射的にある感情をもって反応してしまうからだ。

お話は、20世紀前半のドイツの大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの「非ナチ化」裁判を描いたもので、芝居的には、彼を尋問するアメリカ人将校のスティーヴ・アーノルド少将役の役者と、フルトヴェングラー役の役者との、がっぷり四つの舌戦が見どころになっている。

テーマとしては、「芸術と政治は切り離すことができるのであろうか」というのがやっぱり一番わかりやすく提示されてると思うのだが、ぼくはもう一つ、「人が人を裁くときに、その人間の“価値”と、彼が犯した“罪”とは、切り離して考えなければならないはずではないだろうか」ということを強く感じた。

この二つのテーマは、実はナチスとも戦争とも関係ないところでも充分に起こり得るものだ。

題材がナチス関連だと思うと、どうしてもそっちに思考が引きずられてしまうのではないかとぼくは危惧した。

とはいえ、タイトルがどうであれ、内容的にはナチの大罪がどーんと中核にきてるのだが。



演出が映画監督の行定勲で、かといって、これが彼の初めての舞台演出というわけでもないのだが、ぼくは今回初めて観させてもらったので、どんな演出をするのか楽しみでもあった。

最近では、ずっと舞台畑で来ている演出家でも、ばんばん映像を使ったりするから、映像を使ったらいやだなとかいう偏見もなかった。

そしたら、彼は、一番効果的というか、悪く言うと、一番グロテスクな方法で映像を使いやがった(←言葉が汚いですよ!ておどるさん)

はっきり書いちゃうと、ナチスがアウシュビッツで行った、人類史上最悪と言ってもいいユダヤ人虐殺の映像を、アーノルド少将の悪夢として映し出したのだ。

あれを見せちゃうのか。免疫のない現代の観客に。

と、行定さんを責める気は、ぼくにはない。

彼が伝えたいことが理解できた(ように思った)からだ。

行定さんは、その映像に、フルトヴェングラーが振ってるベートーヴェン「交響曲第七番」をかぶせていた。

つまり、ぼくが思うに行定さんは、

「どうですか? この残酷極まりない風景のバックに、この大芸術家が作り出した名曲・名演奏が流れていたら、皆さん、どんな気分になりますか?」

と、大衆であるぼくたちに問いかけたかったんだと思う。

そして、その効果をいやんなるほど知っていたのが、当時のナチス中枢部の連中であって、優れた芸術家であればあるほど、そうやって利用される運命に引っ張られてしまうのだと。

かといって、芸術家にその爪を隠して生きろ、とはやはり言えない。

これって、「アインシュタインのせいで原子爆弾ができた」って言ってるのと同じだから。

でも、「芸術家(もしくは科学者)には罪はない。利用する方が悪いんだ」で、済む問題なのかな? という複雑な気持ちもあるのが正直なところ。

あの映像を見た(見させられた)とき、ぼくは『時計じかけのオレンジ』で、ルドヴィコ療法を受けるアレックスが、

「やめてくれ! ルートヴィヒ(ベートーヴェンのこと)には罪はないんだ!」

と泣き叫ぶシーンを思い出した。

甚だしい暴力的嗜好の人間であるアレックスがベートーヴェンをこよなく愛すってポイントは相当ふざけてる設定なわけだが、「芸術家には罪はないんですよ!」っていう主張は、なるほどと思ったからだ。

だけど翻れば、芸術家は、優れた芸術家であればあるほど、大罪の片棒を担がされる運命も背負っているわけだ。

それを、芸術家の一端(←失礼かな?)にいるロナルド・ハーウッドや行定勲が主張していることが、なんか奇妙だった。



さてさて、出演者たちについて。

期待はもちろん、筧利夫と平幹二郎との一騎打ちなわけでしたが。

素直なところ、筧くんの芝居が、ぼくの期待してた感じじゃなかったな。

おそらく、“芸術を理解しない、粗野な、はなもちならない戦勝国人”であるアーノルドを、分かりやすいハイテンションで演じることを、筧くんも行定さんも良しとしなかったのではないかと思う。

ラスト近く、抑えたセリフ回しでフルトヴェングラーを追いつめるアーノルドの切っ先の鋭さは良かったが、いかんせん、そこに到達するまでが長かった。

はっきり言ってしまうと、精彩を欠いてるように感じた。

なもんで、芝居の冒頭は、“名人”小林隆に完全に場がさらわれてる感じだった。

はっきり書いてしまうと、小林さんが引っ込んだ後はもう、「早く、平幹二郎出てこないかな・・・」と思ってる客だった。

舞台上では小島聖が熱演してたのに、ごめんなさい。



で、待望の(おい)平幹二郎登場。

押し出しはさすが。

決して役者としての格とかではなく、アーノルドとフルトヴェングラーの対比としてのアレだと思うのだが、この二人の“在り方”はすべて対照的。

だけどぼくとしては、筧くんがもっと卑小なアーノルドであればなぁ、と思ってしまうのであった。

最後まで観てみたら、結局、小林さんが一番すごかったんじゃね? とぼくには思えたことである(全く逆の立場の人間を演じた『国民の映画』での名演も加味されてるのかもしれないが)



残った二人の若い役者、福田沙紀ちゃんと鈴木亮平くんに関しては、悪目立ちもせず、お行儀のよいお芝居だったと思います。

・・・全然関係ないけど、鈴木亮平くんて、今度映画化される『変態仮面』で、主役やるんだね。(←!!!)

ま、まさかあの、「それは私のおいな(ピ――――――――!)だ!」をやってしまうのか? 実写で((((('−')))))

まあ、万が一にもなかっただろうが、光一さんが主演じゃなくて、本当に、よ、良かった・・・(本音/笑)

ごめん、最後こんな話で終わってm(_ _ )m



あ、じゃあ、もっと爽やかな(こら)話で終わろう。

今回、プログラム売り場のお兄ちゃんが、すっごく感じが良く、「銀河劇場のスタッフなのか? それとも主催者側の人?」と気になっていたのだが、どうやら声優の吉田智則さん(でもなんで?)と判明。

販売スタッフの愛想が良いと、それだけで客は気分がアガりますな。

意外と大事なことです。

他のコヤでも、プログラム売りとか、フライヤー配りとかを若い役者さんがやってることがあるけど、ただイケメン&可愛いだけじゃダメなんで。

恥ずかしがらずに明るくはきはきと接してくれると、心の中で「君はきっと売れるよ!」と念を送りたくなります(←ゲンキン)

そして、その念はまとまると現実化するんよ。

そんなシアターゴアーのたわごとでした。


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