てくてくミーハー道場
もくじ|前回てくてく|次回てくてく
| 2010年01月31日(日) |
『TALK LIKE SINGING』(赤坂ACTシアター) |
キャスト・スタッフともに完全日本産の作品をブロードウェイで初演(正確には「オフ・ブロードウェイ」である)した、という“ウリ”は、キャッチフレーズだけは(また毒?)デカいのが常のあの事務所のことだから、逆に、日本の観客の心理にマイナス影響なのではないだろうか、と思っていたのが本音です。
けど、その周辺事情だけで「けっ」て言っちゃうのも大人気ない。
ちゃんと、自分の目で見てから判断しなきゃね、と、ぼくにしては早めの日程をとりました。
それに、なんだかんだ言って、三谷作品を信用してるし。
(良い方の)期待は裏切られませんでした。
三谷色満載の脚本(人情話のようなオチ、ベタだけど好き(*^^*))と演出、いわゆる「ミュージカル臭さ」のない小西康陽の秀逸な音楽、そして実力派のサブキャストたち(少人数なところが、三谷らしくて良い)
そしてやっぱり、Shingo Katori(わざと海外用表記にしてみました)が良かった。
これ言っちゃうと悔しいけど(なんでだよ?)
歌番組から受ける印象より、ずっと歌唱力があったことにもちょいと驚いた(←失礼ね)
やっぱSMAPって、踊りすぎなんだよ。だからピッチがぶれるんだよ(えぇっ?! それを今言う?)
後で書こうと思ったことだけど今必要だから書いちゃうが、この日は慎吾ちゃんの33回目のお誕生日だった(いい日に行ったなぁ我ながら)
33歳。もう充分オトナである。
いや分かってる。慎吾ちゃん(「ちゃん」て書いちゃうところが、実は分かってないってことなのだが)はもう何年も前から立派に大人である。
ビールはガバガバ飲むし、タバコも吸ってるのを知っている。
いやそんな表面的なことに限らず、いろんな意味で彼はずっと前から大人になってるはずだ(しかも、ゲイノー人だし)
なのに、三谷幸喜が香取慎吾に今回当て書きした「ターロウ」の人物像は、まったくもってぼくたち一定の年齢以上の(つまり、SMAPがデビューした時に既に大人だった)日本人が、ずーっと慎吾ちゃんに対して抱いているイメージそのものだった。
すなわち、「永遠の10歳児」。
慎吾ちゃんに特に興味のない人からは、彼はその体の大きさと、生まれてから今までの3分の2以上の年月を「アイドル」として生きてきた、という事実や『SMAP×SMAP』での彼のたたずまいから、自信家で明るくておおざっぱな性格に見えるのじゃないだろうか。
そして、いくばくかでも「ファン」である人の目には、そのパッと見の豪快さと裏腹に時たま垣間見せるセンシティブさが、たまらなくアンビバレンツな魅力に映っているはずだ。
体は大きいが、芯(=心)がピュアなままの少年。
まるっきりオタの幻想といえないこともないが、これほど少年性を保ったまま年月を過ごしてきた男性有名人は、カトリシンゴの他には考えられない(たとえば、有名子役が青年期にさしかかったときに避けられずに出会う「イノセンスとの別離」。慎吾ちゃんはSMAPというアイコンに守られていたということもあって、それをストレートに経験せずに済んだ、もしくは大衆にそれを見せずに済んだとぼくは見ている)
そんな慎吾ちゃんに当てて三谷幸喜が作り上げたキャラクターは、“普通に話せなくて言葉が全部歌になってしまう”=“満足に言語を操ることができない”青年というもの。
今回の作品の主題をつまんなく解釈してしまって申し訳ないのだが、これは明らかに「普通の人と違っていて、そのために世間と交わりながら生きていくのが難しい主人公が、果たして『普通』になったらどうなったのか。そもそも『普通』って何?」という主題の物語だった。
つまりこの作品は、三谷流『アルジャーノンに花束を』(+『マイ・フェア・レディ』)だったのである。
そういう、下手すると痒くてたまらなくなるような話を、すっぱりと「ヒューマニズム」というアレルゲンなしに描いてしまうから、ぼくは三谷作品を信用しているのだ。
痒くてたまらなくなる紙一重の主題を三谷に選ばせたのは、明らかに香取慎吾の(前述の)パブリックイメージである。
その意味で、この人はやはりワンアンドオンリーな(SMAPがらみなんだから「オンリーワン」と書かなきゃいけないんだろうけど、ぼくはひねくれてるのでわざと書かない)俳優なんだと思う。
そもそも三谷幸喜という人は、ほとんどの役を「当て書き」にするそうだが、こっち(客席)から観ていて、これほどすっぱりと当て書きされた役も珍しいと思ったことである。
思い出してみれば、上記のようなハンディキャップを持つ人物を写実的に造形したのが、かつて慎吾ちゃんの当たり役となった『未成年』のデク(もしくは『ドク』のドク)である。
まんま「デク」や「ドク」だったら、ドラマやくそまじめなエンゲキならともかく、ミュージカル(エンターテインメント作品)としては耐えられない。
だから「歌」にした。
この演劇的デフォルマシオンは見事であった。
作品全体がカビラ君演ずるDr.ダイソンの研究発表、という枠組みをとっているので、ぼくまで何だか研究発表みたいな口調になってしまった。
それにしても話は一番最初に戻るが、これをニューヨークで上演したときの三谷の心境はいかばかりだったであろうか。
彼の作品『恐れを知らぬ川上音二郎一座』を地で行ったわけだからね。
それに、向こうの客は、今ぼくが書いたみたいな香取慎吾のパブリックイメージを持ってないわけじゃないですか(もし、来てたのが“本当に”現地のお客さんたちだったとすれば←超よけーな一言)
日本語と英語の混ぜっぷりや演出は面白かったので、そういう意味では「ウケた」ことを願う。
最後になりますが、この日のカーテンコールは当然慎吾ちゃんへのハッピーバースデイコールとなり、お得な時間を過ごすことができました。
ケーキが登場して、みんなで「ハッピーバースデイ」をご唱和。
キャスト・スタッフからのプレゼントは、カエル色(←観た人だけ笑えるネタ)のPU○Aのジャージ上下(と同時に、グリーンは慎吾ちゃんの担当カラー)でした。
着てみたら、悲しいかな、パツンパツン(T−T)カラダ絞ってね、慎吾ちゃん
「一番デカいサイズなんだけど」
と共演者の皆様から何回も言われてました(−−;)
意外にも、こういったパブリックなお誕生日祝いをしてもらうことは、今まであんまりなかったそうです。
SMAPのコンサートは、たいがい夏から秋にかけてだからだそうで。
そんな貴重な日に出会えて、ぼくも嬉しかったです。
改めて日程表を見たら、これ、全部で50公演もあんのね!
お誕生日でちょうど10公演目。残り40公演なので、まだまだ先は長いぞ(こら、プレッシャーかけるな)
ぜひとも体に気をつけて、でも、栄養は摂り過ぎないように(こら)完走していただきたいと、切に思うものであります。
|