『そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」』ルカによる福音書23.21−34
久しぶりの北栄キリスト教会。 佳代子さんが聖歌隊を率いるというので 特別礼拝に参加した。
明るい光の入る清潔な建物。 高い天井に響く賛美歌。 美しいピアノの音色とオルガン。 あたたかく親切な人々。
やはり安心、した気持ちになる。
埼玉の川口からいらしたという矢吹牧師のお話がよかった。 声がよい。語り口がよい。朗々と変な抑揚をつけてお説教したりしない。
ご自分の言葉で信仰というものを、信仰を通した自分の人生を、簡潔にユーモアを交えて話す。
※
牧師が11歳のとき家に帰ると、母親が生まれたての赤ん坊を抱いていた。
「今日からこの子を我が家の子として育てます。いじめたら承知しませんよ。」
3人兄弟を並べ、そう話したそうだ。
その子は父親の愛人の子どもであった。
母なりの覚悟があったのだろう。その物言いには凄みさえ感じたという。それから牧師は父親への不信感、憎しみを抱きつつ成長する。表立って憎しみはださないものの母親を悲しませた父親をどうしても赦す事ができなかった。牧師が大学生のときおつきあいしていたガールフレンドに誘われ初めて教会にゆく。そのときのお説教が、冒頭の箇所だったという。
『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』
「僕は、父は私たち家族に謝罪するべきだ、と思っていました。ただ、そのとき、そうしなければ父を赦さないと思っている「自分」こそを認め赦すべきでないかと発想の転換がおきたのです」
※
・・・つまり?
聖書では 人々は罪なきイエスを死刑にするために十字架を背負わせ歩かせる。
(おそらく恐怖から)自分を責め罵り十字架に磔け罰しようとする人々のために、イエスは祈る。 自分の間違いは棚にあげて、人を責め十字架までを背負わせようとする人々の為にイエスは祈る。
『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』
ううーん。愛だなあ。
通常で聞く「お話」ならば、「憐れみ?上から目線?」などと感じがちだが、礼拝のなかできくと、「ああなんと尊い気持ちだろう」と心うたれ賛美歌がしみいる。
それは、「こころ」でも「からだ」でもない、やはり「魂がひきあげられる」という経験なのだろう。
○
牧師と父親は、父親が病気をした晩年の5年間を同居し、その間父親は息子が牧師をつとめる教会に(初めて)通ったそうだ。
息子が牧師になると言った際に勘当したことも、愛人の子どものこともお互い直接言葉にすることはなかったが、穏やかなよい晩年だったと思うと話していた。父親が亡くなっった後、父親の書斎の引き出しには5年間分の教会の週報がきっちりと並べられていたそうだ。
○
石原夫妻ともご挨拶できてよかった。 よい、礼拝であった。
|