東日本大震災から
R/H



 気仙沼へ!

朝、4時半 ランドセル約70個・子供用靴多数・学用品・水・生活用品などを積み込み上尾を出発。




5時過ぎに久喜インターから入り、途中2度の給油と朝食休憩を取り、9:55一関インター(岩手県)を出た。
那須高原あたりから高速道路も少し傷んで修復して段差のある箇所があったが仙台以北は殆ど道路は傷んでいなかった。

一関インターから気仙沼は約50キロ、意外と順調で11:10に目的地の気仙沼高校避難所に着いた。

避難所は山側の高台にあり、海も災害地区も見えない。驚いたことにこの周りの建物は何一つ壊れているところはなかった。避難所のリーダーに聞くと、地震の被害は殆ど無かった。全て津波でやられた。彼も自宅と会社が全て流されたそうだ。

避難所は、体育館が物資倉庫、その他に3つの大教室に約500人が避難生活をしていた。この日、日曜はボランティアの休日にしてあるということで避難所も静かであった。つまりボランティアとは被災していない地元の人である。気仙沼の避難所は、ここを含めて90箇所だそうだ。その他に自宅被災民。物資は確かに体育館には沢山積んであるが、一日の消費量も半端ではない。継続して食料や消耗品の補給をしなければあっという間に底をつくだろう。




物資の搬入を終え今後の打ち合わせを終えた後、被災地域を案内してもらった。TVで映し出されているままの惨状。炎上した船や陸に上がった船、叩き壊された木造住宅をみると津波の恐ろしさにあらためて驚く。ただ津波が当たらなかった地域は何も壊れていない。コンビニもGSもやっている。つまり同じ気仙沼市民でも、全てを失った人と何も失わなかった人とくっきり別れている。これも厳しい現実だ。







気仙沼だけでも90箇所。岩手県から千葉県までの、また県外避難所まで含めるといったいいくつの避難所があるのだろう。この計り知れない方々への支援を少しでも手を緩めるとすぐに食料と消耗品は枯渇するだろう。また、私たちの目指す子どもたちへの支援も絶対に必要なことだと思う。

TVや新聞の「物資は足り始めている」とかいう報道を鵜呑みにしてはいけない。今日足りていても明日足りなくなるほどの被災者がいるのだ。



2011年04月03日(日)



 現地を見て思うこと

気仙沼の現状を見て感じたことを率直に書く。

ボランティアが異常に少ない

16年前、私は地震6日目に寝袋と少しの食料を持って新幹線に飛び乗り西宮駅に降り立った。西宮JCの事務所を目指して瓦礫の中を歩いた。
多くのボランティアが何も考えずに飛び込んできた。後輩たちも続々と後を追って入ってきてくれた。炊き出しや自宅避難者への配送はボランティア達でやった。

そんなイメージを持って「気仙沼避難所」へ行った。校庭には自衛隊が陣取って作業をしていた。しかし活気あふれるボランティアの姿は無かった。避難所リーダーに聞くと、「今日は日曜日なのでボランティアは休みです。」と言っていた。つまりボランティアとは近所のお手伝いの人のことのようである。

TVでは、「ボランティア希望者は現地のボランティアセンターに問い合わせて下さい。」と言い、「寝場所、食料は自分で用意して自己完結できる方が参加して下さい。」と繰り返し流されている。

そんな難しいことを言われては誰でも二の足を踏む!

現地に言って感じたことは、壊滅的被害がある場所と道1本隔てれば無傷の町があり、そこにはコンビニもガソリンスタンドも今はやっている。もちろん旅館も牛丼屋もある。震災直後の危険な時期は別として今は現地に行けば宿も食料も見つかる。場合によってはホームステイだって歓迎されるはずだ。

阪神淡路・中越地震と多くのボランティアが行くようになり行政はボランティアセンターなるものを社会福祉協議会と作った。マニュアルで指示するようになったボランティア管理は、ボランティアの心意気を殺いでしまっているような気がしてならない。

皆、現地へ行けば何でもあるよ!

いける人は今すぐいけ!!










2011年04月04日(月)



 東日本大震災支援をしようじゃないか!の会

今日、仕事が終わって夜6時。私の海外支援の仲間と「三聚会」という地域と社会を考える仲間の有志が集まり、相談し「東日本大震災支援をしようじゃないか!の会」を立ち上げた。

先週末に気仙沼へ行ってきた様子を説明しみんなの意見を聞いた。

参加者全員が、「何かしたいと思っていたがどうしたら良いのか解らなかった。」「できることは寄付位かなと思っていた。」と言った。

私は、現地にはボランティアが来ていない様子を説明し、現地は何でも欲しがっていることを伝えた。

ことは簡単だった。

何かしたいという者がいて、手助けが欲しいと言う被災者がいる。

だったら行けば良いのだ。

こんな簡単なことが、行政(ボランティアセンター)が絡むと難しくなる。受付が必要だとか、自己完結ができる人とか、、

さあ、行こう。
困っている人がそこにいるんだよ。一歩踏み出そう。
自分の責任で行けばいいんだよ。
皆自分の責任で生きてるんだからさ。

そして、自分が一歩踏み出せたら次の世代へそれを繋ごうよ。







2011年04月06日(水)



 震災から1ヶ月

今日で震災から1ヶ月たった。あっという間の1ヶ月だった。
スケジュール表を見返さなければ、この1ヶ月何があったのかも思い出せない位、精神的に忙しい1ヶ月だった。

TVでは、1ヶ月を振り返った放送番組を放映していた。1ヶ月前の被災地の映像と現在の映像は、道路は通るようになっているが、道路以外は殆ど手つかずだ。

今も、福島で震度6の地震があったようだ。ここ上尾でもかなり揺れた。
連日の震度6の余震では、避難所の方々は機が狂うような思いであろう。

1日も早く、原発が落ち着き、余震が落ち着くことを祈るばかりである。



今日、メンバーの三枝さんが知り合いと集めた絵本と児童書を300冊ほど持って来てくれた。明日もメンバーの佐藤君が絵本の搬入をすると連絡があった。ありがたいことである。





2011年04月11日(月)



 福島物産展

JC(青年会議所)の埼玉の会長から電話があった。
JCの組織の中で、埼玉の支援担当は福島と決まっているそうである。しかし福島の被災地は、原発の影響があり直接被災地には行けない。
そこで、福島の物産が風評被害になっていて放射能汚染の無いものまで販売ができない現状を手助けするために、埼玉各地で福島物産展を企画したいと言う連絡があった。是非協力して欲しいと言うお願いであった。
もちろん「天然温泉花咲の湯」で朝市をやってもいいし、場合によっては上尾商工会議所を巻き込んでのイベントを組んでも良いと言った。被災地の方を支援できることなら何でもやろう!

しかし、昨夜原発事故レベルが最悪の「レベル7」と発表された。汚染のない農産物は何も問題ないが、この問題は本当に深刻だ。一日も早く原発問題を収束しないと国際的にも日本は孤立してしまう。


2011年04月12日(火)



 気仙沼市役所より要請

JC(青年会議所)の現役メンバーを通じて気仙沼市役所が避難所に必要な物のリストを送ってきた。我がチームは絵本や文房具を中心に集めていたが、取り急ぎ市役所が要請するものを集めよう。

1)野菜ジュース ビタミン剤(サプルメント) 
2)米
3)調味料(だし、醤油、味噌、砂糖、塩、コンソメ、マヨネーズ、七味、生姜、酢、ドレッシング、胡椒)
4)レトルト食品・レトルトごはん
5)除菌剤(ウェットティッシュ、消毒ハンドジェル)
6)消臭剤
7)くつ(新品)
8)長くつ(新品)
9)スリッパ
10)作業着(新品)
11)洗濯ハンガー、角ハンガー
12)文具類(新品)

ここに書いてあるものを支援物資として提供できる方は連絡下さい。
僕達が現地へ運びます。

riichi@hoshimata.co.jp


2011年04月13日(水)



 商工会議所が全面支援

昨日、上尾商工会議所の正副会頭会議があった。
そこで、今回の気仙沼支援隊の事を説明した。すると会頭、副会頭、専務が口を揃え、会議所の会員企業にも情報を流し物資の提供を依頼しましょうと言ってくれた。

いつも思うことは、「思えば行動にし、動けば人は協力してくれる」

考えてるだけじゃ駄目なんだ! 行動してこそ人も付いてくる。

はじめは、人の声かけで動き、次には声をかける人間になろう!



2011年04月14日(木)
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