VITA HOMOSEXUALIS
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12月、私が熊本を去る日が近づいた。関東に送り返すものはすでに荷造りしてある。がらんとした部屋の中には布団が積まれているだけだ。
みぞれ混じりの冷たい雨が降っている。
私はふと、ウリ専の「彼」に会いたくなった。彼とは何度か会った。それは感情の介入しないドライな付き合いと言えば言える。男をカネで買うことを憎むゲイがいることも知っている。だが、彼は良い人だった。私は彼が好きになっていた。お互い地震を経験している。お互い同じ映画館を訪れている。「どこ」と言えば話が通じる。彼の身の上話に偽りはなかろうと思われた。
彼にはパトロンがいるらしかった。泊りがけで人吉温泉に誘われたこともあるという話だった。私はそういう話を聞いても嫉妬はしなかった。むしろ、自分の好きな人に人気があるのを知って嬉しく思った。
彼はまたウケのようでもあった。誰かが彼の尻にペニスを突き立てて彼を濡れさせ、泣かせ、喜ばせたろう。自分にその力がないのはもどかしかった。私は感じすぎる。相手の肛門にぐい、ぐいと押し当てているうちにイッてしまう。
古物が思いの外高く売れ、一回遊ぶぐらいの余裕ができた。私は彼のところへ行った。
彼は就職が決まったと言った。だから3月で店を卒業する。就職先は九州ではない。配属はまだ決まらないが、関西か、関東になるかも知れない。私は心から「おめでとう」と言った。大学生だったこと。理系だったこと。それらはみな本当の話だった。
私らは思い出話しをした。最初はだだっ広い店だったこと。シャワーが一階にあって、ベッドルームは二階で、寒い冬に階段を降りて広い台所を突っ切ってシャワーに入り、また出て来るまでの間に凍えたこと。それから跳ね上げ式のベッドのとても狭い場所に移ったこと。そこで地震を経験したこと。
私も、ここへ来るのが最後であることを話した。もっとも、私の場合は希望のある門出などではなかったが。時間とカネがあれば、今日は体は抜きでも一杯おごりたいところだ。
部屋を暗くした、
抱き合った。
麝香のような彼の体臭が私を包んだ。
絡み合ったまま横たわった。昔から使われているベッドは「ギシ」と音を立てる。
彼の唇に自分の唇を重ねた。
彼はキスしてくれるときとそうでないときがあった。キスはたぶん、本当に好きな人のために取ってあるのだろうと私は思っていた。
その日、彼は大きく口を開いて私の唇に吸い付き、舌を絡めてきた。
私は勃起した。彼も勃起した。お互いの熱い下半身が触れた。
「これで最後だ」
私は彼の全身をなめ回した。陰毛の叢に顔を埋め、太くなった彼のペニスを喉の奥までくわえこんだ。
彼を後ろ向きにさせ、尻を大きく広げさせて、その真中の穴の周囲をなめ尽くし、穴の中に舌を突っ込んだ。
彼は私の乳首を責めた。私は声をあげた。彼は私のへその周りをしゃぶった。その口を下半身におろし、私のペニスに唇を当てた。最初はそっと。それから徐々に強く。その間、彼の手は私の乳首をこねまわしていた。私はガマンしなかった。大きな喘ぎ声が出た、そっと自分のペニスに触ってみるとガマン汁でヌルヌルになっていた。
私は何度かイキそうになった。それを抑えて、気持ちを落ち着けた。何度も並んで横になり、彼の顔を眺めた。とびきり美青年ではない。どこにでもいる、明るいスポーツマンタイプだ。全身が浅黒い。肩はがっしりと、腰はくびれて、尻は大きい。
何度も彼を愛撫した。何度も唇を重ねた。体が熱くなった。
彼も射精した。勢い良く。それは胸の方まで翔んだ。
私は彼を抱きしめた。再び唇を重ね、舌を絡め、激しく腰を振って、彼の腹の上に射精した。
それはおびただしい量だった。私の精液はしばらく彼の腹の上でうごめき、じゅるじゅると脇の方へ流れ始めた。私はそれを拭った。
********
商店街にはまだ人通りがあった。
だんだん思い出になろうとしている熊本。九州。何度射精したか知れず。何度オシッコに濡れたか知れず。私の恋心も痴情も全部吸い尽くした九州。
ライトアップされた城は建て直しのシートに覆われている。
がたがた揺れる市電では、タレントのコロッケが物真似でアナウンスを吹き込んでいた。
「淋しうなりますなあ」
店長もしんみりと言った。
私はいつものように、そこでちょっとした買い物をして、「それじゃあお元気で」と外に出た。
店長も外に出た。
「長い間お世話になりました」
私たちは握手をした。
私は踵を返した。
店長は後ろから私の腰を抱いた。
私たちはしばらくそのままじっとしていた。
私の息は荒くなり、体が揺れ始めた。
彼の体も揺れ始めた。
私のペニスは硬くなり、ズボンの前が異様に張った。私は濡れ始めた。
私は手をそっと後ろに廻した。
彼のズボンの前もこちこちに張っていた。
私はそっと彼のジッパーを下ろそうとした。
「いけません」
彼はささやいて私の手を抑えた。
「なんでいかんと?」
「なんででも、それをやったら・・・」
「オレのはこんなに勃っとる」
私は彼の手を自分のズボンの前に導いた。
「それに濡れとうし」
「オレも勃ってます・・・」
彼の声はかすれるようだった。
「濡れてもいます・・・
「けどダメなんです・・・
「それをやったらオレたちくずれちゃいます・・・」
彼の息が熱かった。
私は彼の手を強く握った。
彼も強く握り返した。
私はその手を彼のズボンの前に持っていき、二、三度ぐっぐっと押し付けた。
それから手を放し、後ろを見ないで歩き始めた。
コンビニの駐車場を出るところで私は振り返った。
彼は私を見ていた。
私たちは手を振った。
私は暗い田んぼの中を歩き始めた。
「こんなところに恋みたいな気持ちがあるとは」
私は落ち着こうとした。だが、涙がぽろぽろ流れた。鼻水がすっと垂れた。
私はこらえきれず、痛いほど張ったペニスを暗い田んぼの畦道で引きずり出してこすった。ペニスは汁でヌルヌルで、数回こすっただけで盛大に精液を吐き出した。
吐き出した後を少し濡らしたまま私は歩き始めた。涙と鼻水はなかなか止まらなかった。
部屋に帰ってシャワーを浴びた。寝る前にもう一度オナニーしたが、なかなか寝付かれなかった。
2018年01月29日(月) |
熊本を去る日が近づく |
そうこうするうちに、私の熊本での任期も切れる日が近づいてきた。 延長はできたが、これ以上熊本にとどまる気もなく、私は関東に帰ることにした。
その4年間の熊本生活を通じて、仲良くなったコンビニの店長がいた。
そのコンビニは田んぼの中の不便なところにある。だが私のアパートからは最も近かった。
それでほとんど毎日そこに何かを買いに行った。
そうこうするうちに、ときおり店長や若い店員と言葉を交わすようになった。最初はアルバイトの店員に面白い人がいたので、軽口を叩いていたのだと思う。
コンビニの店員は頻繁に変わってしまうが、そこは面白いことに店長以下二人の若者がずっと同じメンバーだった。それで、買い物のついでに彼らと談笑するようになった。
店長はまだ若い。20代の青年だった。店長の親父さんは近くの寿司屋の職人である。店長は若い女性と結婚し、かわいい盛りの男の子が一人いる。その奥さんとお子さんもときおり店内で見かけた。
そういうとき、店長自身もコンビニをやめて熊本市で公務員になるつもりだと聞いた。しかもそのコンビニ自体が閉店するのだった。
「そうか、おたがい、離れ離れになるたいね〜」という話をした。
寒い晩、私を送り出す宴会があった。
私は同僚が「くるまで送る」というのを制止して、歩いて帰ると言った。
居酒屋からアパートまで、歩くとおよそ30分。その間にあのコンビニの前を通る。
「これで最後だなあ」と思いながら田んぼの中を歩いた。
あのコンビニはいつもと同じように営業していた。私はその中に入った。
もう夜中を過ぎ、店には客も若いアルバイトの子もいなかった。店長ひとりだった。
「いよいよ最後ですたい。お世話になりました」私は声をかけた・・・
2018年01月21日(日) |
熊本地震とゲイの暖かさ(2) |
アパートに帰ってみると部屋の中はめちゃくちゃだった。
あらゆるものがひっくり返り、飛び散り、壊れたり割れたりしていた。
冷蔵庫の扉が開き、中のものが床に散乱していた。
不思議なのはパソコンのプリンターで、上手に上下が反転して床に落ちていた。しかし、それを元通りに戻して接続すると動いた。印刷も正常だった。
電気は止まってなかった。ガスも出た。
問題は水だった。断水していた。外に出てみたが、自動販売機はどこも水だけ売り切れ。コンビニもスーパーも空いておらず、水を手に入れることができなかった。
私は冷蔵庫を動かし、洗面器に霜をかき集め、それを溶かして水を得た。霜のときは量も多いように見えたが、溶かして水にするとわずかしかなかった。ともかくそれを指先につけて口をすすぎ、顔をぬぐい、残りはトイレに使った。
そういう生活が3日続いたとき、大阪のゲイ友を通じて近所のゲイ仲間と連絡がとれた。この大阪のゲイ友は若いけど人柄の良い人で、たまに大阪に出張すると会い、ときにはホテルで抱き合うこともあった。
そしてその、私の近所のゲイ仲間というのは、もともと大阪の彼の友達なのだったが、自転車でほんの数分という、熊本の片田舎にしては信じられないほど近くに住んでいるゲイであり、体の付き合いはなかったが、ときどき酒を飲む、ガテン系で体はでかいが、人当たりの柔らかい、優しい人なのだった。
もちろん、彼のところも水は止まっていた。だが、彼の家の近くには湧き水がある。熊本は阿蘇の地下水のために水が豊富で、至るところから清水が湧き出すのだ。
彼はありったけの容器、それこそ、鍋からヤカンから、ペットボトル、水筒など、自分のウチにあるありとあらゆる容器に湧き水を詰めて、クルマで私のところに運んでくれた。
残念ながら、地震の影響で湧き水はしょうしょう濁っていた。しかし、飲水には無理でも、顔を拭ったりトイレに流したりするには十分である。また、沸騰させてしまえば飲めないわけでもない。
私はその湧き水で不自由なく暮らすことができた。
そのうちに会社が本社から大量のカップ麺や水をトラックで運んでくれ、会社では大きな会議室の机を取り払って床にいくつかテントを張ってテント村のようにし、近隣住民の避難を受け入れ始めた。従業員の中にも自宅が壊れた人はそこで寝泊まるする人がでた。女性がボランティアで炊き出しを始め、夕食を振る舞った。
私のアパートから少し離れたところには、自衛隊が仮設の風呂サービスをやってくれるところもあった。
私たちはこうやって助け合いながら暮らしを再建していった。
私の場合、本当にそれを支えてくれたのは大阪のゲイ友、そして、彼から連絡を受けて駆けつけてくれた地元のゲイ青年だった。この二人にはいくら感謝してもしきれないものを感じている。
2018年01月19日(金) |
熊本地震とゲイの暖かさ(1) |
よく知られる通り、2016年4月14日午後9時26分と、16日午前1時25分に熊本は大きな地震に襲われた。
最初の地震があったとき、私は熊本市内の居酒屋で飲んでいた。その晩は出張から帰ったばかりで、田んぼの中のアパートまで帰るのが面倒だったから、熊本市内のホテルに泊まることにしていた。
また、その翌日は有給休暇を取り、実家の親を老人ホームに入れる算段をすることになっていた。
居酒屋で飲んでいると、上下動が来た。それはぐんぐん大きくなり、棚のグラスや器がバラバラ落ちて割れ始めた。私はカウンターに手をかけて立ち上がったが、立っているのがやっとなほどの大きな揺れが続いた。
しばらくして揺れが収まったとき、壁にかかった絵は傾き、トイレの給水器は壊れ、酒瓶は落ちて割れて芳香を放っていた。
しかし不思議に電気は止まらず、これで私たちはだいぶ助かった。御見舞に二千円だけ置いて帰ろうとするのを店主は断り、エレベーターが動かなかったので私は非常階段で外に出た。
街路にはガラスが散乱していたが、市電は無事に動いていた。
私はホテルまで行った。エレベータは使えない、明日の朝食サービスはない、と申し訳なさそうに言われた。それでも泊まることは出来た。
翌朝私は熊本駅に行ったが、何も動いていなかった。しばらく待っていたら動くかなと思ったが、その気配もなく、そもそも駅が開いていなかった。数人の観光客が不安げに立っていた。
私はタクシーを拾い、とにかく電車が動いているところまで行った。それから何とか郷里に駆けつけ、弟と二人で親の移送を頼んだ。その晩にまた地震があった。
博多までは無事に戻れた。その先はダメだった。
私はただ人々の列について歩いていった。それは大きなリュックを背負った人たちで、ボランテイアなのだった。「もう来てくれたんだ」と思った。ボタンテイアのために臨時バスがあったので、私はそれに潜り込んで、どうやら熊本市内までは帰った。
原が減ったが市内はどの店も開いていなかった。電話しても出ない。
緊急車両が走り回っていた。それは全国から来ていた。「和歌山県」と書いた救急車が走り、「長野県」の腕章をした人が地図を広げてハンディカムで何か協議し、「高知県」と書いたジープが「災害支援」という白い布をはためかせて走った。
中でも私が驚いたのは「福島県」の救急車や、「宮城県」のトラックが走っていたことだった。
ああ、あの地域は東北大震災で大変だろうに。こちらから支援に出かけて行かなければならないところだのに、反対に向こうから駆けつけてきてくれた。
涙が出た。
高級用菓子店が一軒だけ開いており、私はそれから3日ほどそのお菓子を食べて暮らした。
2018年01月18日(木) |
ひとり遊びの耐えられない羞恥 |
私はその彼と途切れた悔しさを抱えてオナニーした。
何度もやった。
そうしてわかったのは、もはや通常のオナニーでは低い満足しか感じられないということであった。
ではどうすれば良いのか?
彼との思い出をひきずっている私には、それは放尿しかなかった。
私は風呂場で寝転んでおしっこを出した。ときにはタオルでおしっこを受けて、暖かい刺激臭を鼻に押し当てて興奮した。
ときには下着をつけたまま、ぐしょぐしょになるまで濡らした。
ときには腰を持ち上げて両足を高くかかげ、ほとんど倒立の姿勢になっておしっこした。そうすると雫が腹から胸に向かって幾筋もの川筋のようになって落ちてくる。興奮しているとそれにガマン汁がまじり、少しぬるぬるする。私はそれを全身に塗りたくった。
また、もっと両足を挙げると、おしっこが顔を直撃する位置にくる。これで顔面におしっこを受けたこともあった。だが、この姿勢はあまりに疲れ、顔で受けてもあまり楽しめないのでやめた。
なべてこういう遊びをやるときに気をつけるのは健康である。だってもし、私がこの遊びの最中に心臓マヒか何かで死んだら、私のこの秘密の趣味が警察にも、家族にもわかってしまう。ことによったらおもしろおかしくマスコミに出るかも知れない。
私はジャージをはいて外に出た。 外は駐車場である。 その向こうは道路で、その道路の向こうは畑である。
私はそこらを歩きながらジャージの中におしっこした。
最初は歩きながらだと出ない。立ち止まって身構えて始めてできる。
だが、ぎりぎりまでおしっこを我慢していると、ジャージをはいたままでも少し出せる。
少し出たらしめたものだ。力を入れていきむとたくさん出る。
ひとたびたくさん出るようになると、止まらないくらい出て困る。
こういう状態でおしっこをすると、なかなか真ん中には出ない。右に偏るか、左に偏るかである。下着やジャージのどちらかが激しく濡れる。
靴の中にもおしっこが入る。歩くとぐちゅ、ぐちゅ、という音がする。
帰ったら全部洗濯するが、靴を洗うのが大変である。そのままにしておくときつい匂いが残る。
本当はこうやって漏らしているところを誰かに見られたいのである。
見られたときの羞恥を思うとそれだけで興奮する。
そのうちに私のオナニーは変わり始めた。前半はおしっこ、後半は手コキと、はっきり別れたのである。
そのうちに後半の手コキもいらなくなった。お漏らしだけで十分満足で、その後を精液で汚す必要はなくなったのである。
ヒトと親しくなる最初のときも難しいが、ヒトと関係が切れていくときも難しい。
どのタイミングでどんな言葉を返すか、さんざんに考える。
彼に「会いたい」と告げた私のメールは唐突な印象を与えたらしい。
「早すぎます」という一言だけの返事が来た。
私は少し焦ったかも知れない。今が早すぎるなら、この先何が起こったら普通になるのだろう。
それから彼のメールは途絶え気味になった。
ときたまやってきても、「冷たい風の吹く晩に自分はひとり」とか「湿ったトランクスの匂いに懐かしさを感じます」とか、ほんの一行、一文の短いメールになった。
私は、交互に出すのを原則にしていた。彼から来たら返事は出す。しかし、返事が来ないのにこちらから立て続けに出すことはしない。
そうして彼からの返事を待った。
しばらく来ないことが増えた。私はそれでも待った。ずっとこないことも増えた。
今でもそうである。いつかやってくるかも知れない。私はアドレスは変えてない。
それでも彼との交信はとだえた。
そうなると、「あれは本物だったのだろうか?」という疑問が起きてきた。あの顔写真は本当に自分のものだろうか? ネットで適当に拾ったものではないだろうか? さらにあの、オシッコの染みが広がっていくトランクスの写真はどうだろうか? あれもどこかで拾った画像かも知れない。そうすると、真正直に自分でオシッコを我慢し、やがてそれを漏らし、そうして下着が濡れるところを撮影し、すっかり興奮してしまってオナニーし、射精するところの写真も撮って送った自分はばかばかしい。
だが、彼の写真が偽物と決まったわけではない。そっくりの写真がネットにあったとしても、それをダウンロードして他人に送るのは面倒なはずだ、そんな面倒なことをするより自分で出して写真を撮った方が簡単にきまっている、だから放尿画像というのはたいてい本物なのだ。
わたしはそんなふうにいろいろ考えた。
確実に言えることは、またもやひとりぼっちになったということであった。
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