げっかん かちょうふうげつ
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 これ以上も、これ以下でもなく





この夏、ふと、気がついたことがあります、
私の写真は、私の写真になってしまい、
他の人が撮ったものと、まぜたところで、
たぶん、混ざらない、と。

見慣れた人、たとえば
この日記やブログの読者さまですが、
多くの中にあっても、その目はおのずと、
「あ、あれだな。」
と、わかってしまうような気がします。

これ以上もなく、以下でもない、
そういう「点」みたいなところが、
個性なのだろうかと、
去年の九月の「げっかん かちょうふうげつ」を読み返して、
思い浮かびました。

「これ以上もなく、以下でもなく」というのは、
上手い、下手のことじゃないような、気がするんですよ。
そういうことでしたら、私の写真は、
下手ですし、おもしろくありません。

そう思っていても、
どこか、私が逃げられないところがあって、
そうだったとしても、まぁ逃げることもあるまい、
そんなことを考えた夏でした。

(すみません、お待たせしました!)

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2008年09月24日(水)



 ことばではない、なにかここにあるもの、あったもの




一枚の写真の中に、
その時の記録としての言葉は、
書いてありませんが、
撮った本人が、後で見ると、
その時の気分をありありと、思い出すことがあります。


見た人を、上からすっぽり包むように
当時のそのことをそのまま、再現してしまう。
たった一枚の写真から、呼び出される
あんまりにも悲しく、あるいは、とてもうれしいこと。


「えっ、そんなこと、ないよ。」
という人は、そうなるまで、撮ってみてください。
気分を、自分(内面)を撮ることも、
上手に!なんてことも、まったく不要です。
それでも、言葉で記されたものより、
ずっといい記録になることが、きっとあります。
わたしが、ほしょうします!!
と、書きたいぐらい、お勧めです。

かと言って、わたしが始終、
そういう体験をしているわけでもなく
自分で撮った娘の写真を見ても、
クールだなぁと、思ったりするほどで、
ある意味、続けることがつまらなくもあるのです。
でも時々、なんてこともない花の写真に
悲しいことや、うれしいことを見てしまいます。

そして、こんな写真は、もう撮れないかもと、思います。
もう、できないっていうことは、さみしいことではなくて、
もしかすると、また撮ってしまう気もするし、
それを撮らなくても、今、想像できない何かが
あるのだろうと。

それは写真だけじゃななくて、
すべてのことにおいて、という予感が
なんとなく、いい気分なのでした。

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2008年10月13日(月)



 ドキドキしたのは・・・




今月に入るまでに、たくさん見ました、
わたしのもとを離れた、カレンダー。

実際に伺ったり、
ブログの記事にしてくださったり、
写真を送ってくださったり。
(どうもありがとうございます!)

いろいろなお家の「わたしのカレンダー」は、
すでに
「わたしのもの」でも、
「わたし」でも、ありません。
「わたしがつくった」という気配だけが、
そこにあるのでした。

みなさんにお渡しする前は、
わたしのもの、とか、わたし、ということと、
すごく近いものなのですよ。

カレンダーは、わたしを離れて、場所を与えられ、
そこですっかり部屋の風景の一部となっています。
そのことと、
「わたしがつくった」という気配とまざって、
わたしのなかへ、ふたたび戻るとき、
非常にドキッとさせられます。


「一枚、一枚めくると、すごく、ドキドキするわ、これ。」
できたて(来年のカレンダー)をご覧くださった方の感想です。

「いえいえ、いちばんドキドキしたのは、このわたし!」
写真を選んでいる時から、なぜかドキドキしていました。

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2008年11月25日(火)



 燃えるように





冬の赤は、赤いバラではなく、
やっぱりポインセチアですよね。
たっぷりした面積の赤が、とても好ましくおもいます。

若いころ、赤いニットのセーター、スカートの上下を着ていくと、
会社でとても尊敬していた年上の女の人に、
「あなたに、とてもよく似合うわ。」
と言われ、とてもうれしくなった記憶があります。

実際は、わたしの顔色が悪いような肌色が、
赤い服のおかげで、血色良く見えた、ということなのでしょう。

赤い服を着ることは、もうないでしょうけど、
燃えるようななにかを、上手に持っていたいな、
そして、くだらないことに、それを使いたくないと、
この写真を見て、おもうのでした。



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2008年12月21日(日)



 伝える 伝わる 伝わる




風邪がなかなかよくならず、寝ている日も多くなっていた一月。
なぜだか、くしゃみばかりしていた一日の終わり、
一本の電話がありました。

年配の人らしいその声に、聞き覚えがないので、
初めは怪しんでいました。

静かですこし遠く、ゆっくりと丁寧。
仕事として電話をかけているらしく、
「どこのだれ」を明かす言葉は、少し長く、
その途中で、やっと私の中で、
(あれだよ、あれ・・・)

その途端、
「すみませんっ!」
と、謝りたいような気がして、
事実、頭をさげていたらしいのです(家族談)。


要件は、ささいなこと。
私の意図したことが、
人から人へ、最後まで届いたということ。
電話からは、とても丁重に扱ってくださったような感じが
伝わってくるようで、
頭がさらに下がります・・・。

無視されて、当然だとも、
どこまでか伝わったとしても、ただそれだけのことで、
「それから」を、わたしが知ることは、
まずないなと、思っていました。
だから電話の主には、
「コトの顛末を連絡をしない」という選択肢も
大いにあったはずなのに、この電話。


連絡を待っていたわけでもないのに、
するっと、気持が軽くなったような
神様の目ざましのような電話でした。


一見、ちいさいけど、ひとからひとへの、確実なこと、
あるいは、それを感じること。
それは、目には見えないし、
感動した、うっとりした、酔うとか
そんなつよいことでもないけど、
波紋が音も立てず、しずかにひろがる、そんなこと。


今はこんなことしか書けないけど、
これには、続きがあるように気がして、
それをいつか、みなさんに話せるといいなぁと
思っている一月です。

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2009年01月23日(金)



 できれば じゃまを・・・





この写真を撮ったとき、少し離れいる場所で、
絵を描いている人がいました。
この梅を描いているわけではないので、
撮らせてもらうことにしましたが、
私のカメラはうるさい、ちょっと気が引けます。
(機械音なので、消せません。)

それに、この梅の木。
わざわざ見るやってくる人もいて、
(もう何年も見続けている馴染みの梅の木です。)
そうなったら、休憩にしようと決めて、撮りはじめました。

梅の木はわりに背が低いので、
撮っていることで、
花を散らしたり、枝をそこなったりしないように
かがんだり、のけぞったり。
写真を撮ることよりも、
そこに梅の木があることが、なによりも大事なので、
大事なものを優先。

幸いにして、
絵を描く人は、変わらず単調に手と首を動かしているし、
だれも来ません。
そしてようやく、
私自身が邪魔されたくないなと思い始めます。
そうした時間の中で撮った一枚です。

梅は、ごまかしがきかないのです。
下手も上手いも、何も考えてないゆえのそのまんまとか、
ずばり出てしまいます。
毎年撮るけど、たいしてよいものはないのですが、
この日撮ったものは、何枚からか、選び迷いました。


これからさらに暖かくなると、
「オレサマ写真家」が出没するので、
うんざりするのですが、
この日のようなことがないかなぁと、
どっか人の少ないところに出かけてみようかと、思うのでした。

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2009年02月14日(土)



 雨の朝 花の空気




雨ではじまった休日、
傘を持って、昨日も行った桜並木の下へ。

昨日、どこか硬かった景色、
今日は、空気にあたたかな色。
一層ふくらんだ花の息のせいかもしれませんね。

そんな桜並木を独占しつつ、歩いていくと、
一つ、二つ咲いているのを、発見しました。

今月の写真は
もちろん、桜ではなくて、桃の花びら。
季節のバトンタッチ。


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2009年03月20日(金)
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