日記...abc

 

 

- 2006年08月06日(日)

毎日暑い。

暑いと、真っ先に、父親のことが心配になる。




***

先日母と話したときのこと。

母 前に三面鏡が欲しいって、言ってたでしょ?

私 うん。でも、ドレッサーが主流で三面鏡はなかったよね。

母 探して歩いて、もし欲しいのがあったら買ってあげるから言って。





母もかなり変わった。十年前には、

ないものはない、今はドレッサーが流行だから、ドレッサーを買いなさい。こんなに素敵なのがある。お前の欲しいという三面鏡は流行遅れ。あきらめなさい。

と言われたのだが、

それなら、いらない、私が欲しいのは三面鏡だから。ドレッサーがわりの大きな平面鏡なら洗面所にもついてるし。

と答えて、不愉快そうにされたことがあった。


だから、嫁入り道具のひとつとしての三面鏡を持たずに私は、嫁入りした。


***


母が、自分のいいと思うものを私に押しつけるのは、もちろん今にはじまったことではなく、親としては当然なのだろうが、小さい頃から、いつも私は自分の意に添わない物を着せられ、持たされてきた。

それが、三面鏡を買ってあげる、である。

どうしたのだろう。


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- 2006年05月31日(水)

この不愉快さの原因は、一体なんなのか。

わかっている。
自慢話だ。

二十年ぶりに会ったその人と、私は、もっと別の深い話が
できるものと期待していた。
でも、違った。

彼女は、相変わらず、おしゃれで、若々しく、綺麗だった。
それは、いい。

しかし、自分の才能をああまで自慢されると、正直、げんなりする。
言外に、私はアナタとは違うのよ、私は輝いて生きているのよ、
私はただの主婦じゃないのよ、私は、私は……がにじみ出ていた。



一時間も一緒にいたら、ばかばかしくて頭痛がしてきた。

『能ある鷹は爪を隠す』


私も、あんな腐敗臭を漂わせているのだろうか。

『人の振り見て我が振り直せ』


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- 2006年04月30日(日)

連休である。

ココロのどこかで、私の訪問を待っているのかもしれない、と
想像するだけで、私のココロはシュリンクする。

私は私のなかに、沈んでいく。


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- 2006年04月28日(金)

母との関係を築くのに失敗したのは、私の方なのか。

幼稚園の頃、母がぞうきんがけをしていたその後ろを通りがかると、
めずらしく、セーターが短かったのか、母の背中が出ていた。
私は、嬉しくなって、その母の腰の上あたりの背中を、小指で触った。

ママ、お背中出てる、とも言えず、
手のひらで、大胆に触ることもできず、
でも母と遊びたかった私は、小指でそっと触った。

あまりにそっとだったからか、母は気がつかなかった。


2、3回触って、でも母が気がつかなかったので、私は諦めて
台所へと向かった。
冷蔵庫の扉を開け牛乳をしまおうとして(私は牛乳を取り込む係りだったのだ)
異様な気配に振り向くと、
母がすごい形相で立っていた。

「なぜ、背中をひっかくの!」

ひっかいた?
私が?
触っただけなのに。

でも、言えなかった。言えない人間関係ができあがっていた。

私は、母の背中に触って遊ぼう、と誘ったことを後悔し、
ひたすらごめんなさい、を繰り返した。

「背中に触るならわかるけれど、ひっかくなんて。なんて恐ろしい子」




祖母がそんなことないでしょう、と取りなしてくれたけれど
母は、他の人の意見を聴くような人ではなかった。

私は、母の背中をひっかく悪い子、という烙印を押された。






それ以来、私は二度と自分から母に触れにいくことをしなかったような気がする。

自分から手をつなぎにいくことも
抱きつきにいくことも。

あのとき、ひっかいていない、触っただけ、ちょっといたずらに触っただけ、と
言えばよかったのだろうか。

失敗したのは、私なのだろうか。



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- 2006年04月24日(月)

母親に呼び出され、実家に行ってきた。

四月から退職したので、暇なのだろう、週に一度はメールが来る。
遊びにおいで、と書いてある。

母親に
「幼稚園にだってお母さんの付き添いなしで一人で
行かされていたのだから、あの頃から手離れさせられて
いたのだから、いまさらでしょう。
(母親を必要としていたときにいなかったくせに
今頃私を必要とされても困るのよ)」
と言ったら父は大変切なそうな顔をしていたが
母は「そうよね、一人で通ってたものね」
と、いつものように私の裏の意味は受け取れず、
にこにこしていた。

父が気の毒。慟哭。



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- 2006年03月27日(月)

先日、母の誕生日祝いをした。

私がすべてを仕切った。
お赤飯を炊き
材料を買っていって料理を作り
みんなで食べてきた。


端から見ると、よい関係に見えるかもしれない。


でも、申し訳ないことに
私の心が伴っていないのだ。

母を喜ばせたいからお赤飯を
何度も練習して炊いたのではないのだ。

心が伴わないときには、せめて形だけ、と
いつか誰かに教わったのだけれども
(聖書か?)
心が伴わない形ほど、空虚で醜いものはない。


慟哭。




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- 2006年03月26日(日)

私は、母が、いっそ何かの病気だったらいいのにと思う。

抱かれた記憶のない母親。
抱きついた記憶もない母親。
私の悲しみのシグナルに無関心だった母親。
察するのが下手な母親。

そんな母を、病気のせいにできたら、本当に気がラク。



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- 2006年03月24日(金)

よくよく思い出してみると、昔から
母は、風変わりな人であったのかもしれない。



他人の感情を推察する能力が少しだけ劣るような気がする。
気のせいだろうか。

私が、いくらいまはそっとしておいて欲しいという
シグナルを出しても、わかってもらえないことが何度もあった。

そういうとき、母は怒る。
あるいは、無理矢理私に笑顔を作らせる。
そうして自分の安心を確保する。




また、母の心の中をのぞこうにも、よくわからないことが多い。

笑顔で楽しそうにしているときにも
本心が見えないというか。
ああ、楽しかったね、本当においしかったね、と母が言っても
本心から言っているようには聞こえないことが多い。


そして、母は、いつもまわりを気にしている。
自分が場違いな振る舞いをしているのでは、とでも
思っているように。



父と私が冗談を言っていて、母がきょとんとしていることも
日常的にあった。
意味を説明したら、なるほど、と笑う。
でも、アタマで笑っているような、キモチでは笑っていないような。


ここまで思い返して、母に私を傷つける意図がなかったのかもしれない
と思い始めた。

「このホットケーキを全部食べないと、オマエはお母さんのこと
嫌いってことだからね」
幼稚園児の私は、それは大変、と泣きながら食べたのだけれど。

でも食べ終えても、当然かもしれないが、
母から、私のことが大好き、という言葉はなく、
私はあいかわらずひとりぼっちだったが。


母は、私に対して、愛おしい、という感情を爆発させたことがないのかもしれない。
少なくとも私は受け取った記憶がない。
自制心なのか。なんなのか。

もちろん、嫌われているとも思ってはいないが。





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- 2006年03月20日(月)


とても優しい人に会った。

その瞬間、優しさが私に向かって
どっと流れ出してくるのがわかった。
たぶん、体調が悪く弱っている私に同情したのだろう。
なんとかしてあげたいと思ったのだろう。

嬉しかった。


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- 2006年03月13日(月)

母が、もし、自分自身と私を同一視しているのだとしたら、

何を習わせてもものにならなかった
おまえはみっともないのだから、そのことを知りなさい

などと小学生の頃から私に向かって言われた言葉は、
そのまま母自身に向かって放たれた言葉ではなかったか。


何をさせても不器用な自分。
妹よりかわいくない自分。


そういう自身を、自身の分身である子ども、つまり私に
投影した結果ではなかったのか。



…そうかもしれない。よくわからない。
ただ、母は、家事全般に不器用である、といつもいいわけをしながら
生きている。
家事をきちんとこなすことができないのかしないのか、わからないが
いつもおどおどとしている。

お寺さんにお茶を出すときにも
お布施を差し上げるときにも
不調法で、と必ず言う。

ならば、それなりの作法を身につければいいのに、と思うが
母の頭のなかではどうなっているのか、
そういうことを下に見ているのか、
あるいは、本当に自分が不器用やってもできないと思っているのか、
身につけようとしているようにはみえない。

私の母は、他人の目を気にしすぎるのだろうか。

そして、確かにそういう部分は私にも、ある。


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