「なぜ私は何十年もの間、助けてもらえなかったのだろう」という思いが、ときどきふと浮かんでは、頭の中を占領する。 何百回(何千回?)という加害を目の前で見ていた人がいるのに、なぜ私は助けてもらえなかったのだろう。 怒りと憎しみが膨れ上がって、膨れたまま固まりきってしまうまで、なぜ加害は止まなかったのだろう。 なぜ、あの人たちは、私が怒り狂って家庭内別居し誓約書を突きつけるまで、事の重大性に気づかずにいられたのだろう。 なぜ、あの人たちは、事ここに至っても、平気な顔をして笑ったり私に話しかけたりできるのだろう。
なぜ、私は長い間、誰にも助けてもらえなかったのだろう。 小学校4年のとき、学校のアンケートにも「困っていること」として書いたのに、なぜ、誰も何のアクションも起こしてくれなかったのだろう。
なぜ、私は長い間、誰にも助けてもらえなかったのだろう。
なぜ、なぜ?
2024年11月10日(日) |
生きている限り夜は何度でも |
母が突然「あなたの年代なら、まだ、明けない夜はないと思うんでしょう?」と言った。 なぜ急にそんなことを言い出したのかは分らないが、お気楽もいいところだ。
夜が明けても、生きている限りは、また何度でも夜がやって来る。つまり、生きている限り、苦しみは何度だって繰り返される。乗り越えたりやり過ごしたりしても、生きている限りは終わることがない。 夜が来るたび、その夜自体がつらいというより(その夜自体も確かにつらいが)、死ぬまでにあと何度こういうことが起こるのかという絶望に襲われる。
私の年代だって、そういう絶望はあるし、特に私のように日常的に他人の助けがなければ生きることもできない重度身体障害者の人生なら、なおさらだ。 母は、そういう想像ができないのだろうか。
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