VITA HOMOSEXUALIS
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2016年02月29日(月) 身に迫る危険

 ある秋の日、あるところで活動中に「内ゲバ殺人」を目撃した。

 横丁から走り出た数人の覆面、ヘルメットの男が路上の男を鉄パイプでめった打ちにして逃げた。

 道路にはケチャップのような血だまりがぐんぐん大きくなった。倒れた男はぴくりとも動かなかった。

 私もすぐにそこから立ち去ったが、どういうわけか警察の事情聴取を受けるはめになった。

 私は素直には答えなかった。そうすると相手の態度が硬化した。目つきの鋭い、いかにも昔は特高だったといったおもむきの刑事がねちねちと私を恫喝しはじめた。

 事情聴取は一日だけでは終わらなかった。何度も呼び出しがあった。

 そして、私のアパートは見張られるようになった。日曜に目を覚まし、カーテンを開けてみると、電信柱の角に私服らしいのが二人タバコを吹かしていた。

 「あんた、何かやったんじゃないの? 警察がつきまとってるみたいだし」

 私はアパートの管理人の太った中年のおばさんから叱責され、上京してから住んでいたアパートを追い出された。それで下町の金魚屋の二階に住み処を替えた。

 その頃になって、私はようやく活動に倦み始めた。6000枚もビラを撒くが、集会に来るのは数人である。あちこちの闘争に出かけて行くが、地元で何十年も闘いに取り組んでいる人々の迫力には負ける。数人でチョロチョロと歩いたデモでも常に「大勝利」と総括される。「敵は我々の戦闘力を恐怖している」という。しかしそれは戦時中の大本営発表のような強がりではないか。

 私は依然として闘争そのものには意義があり、我々の路線は間違っていないとは思っていた。

 しかし、体の疲れ、権力の暴力装置すなわち警察への警戒、厳しい上下関係、革命を支える前衛の無謬性という考え、こういうことが次第に私の心身の力を殺いでいくようであった。


2016年02月24日(水) 闘いの日

 私たちは小さな集団で、闘争目標は何でも良かった。

 肉体的に激しい闘争は三里塚(成田空港)だった。理不尽な政府のゴリ押しで不便な地に作られた貧相な国際空港。空港としての機能よりも、私たちはあれを日本政府が民衆に牙をむいた象徴としてとらえていた。

 韓国の民主化。今では信じられないことだが、1970年代当時にあっては、北朝鮮の方が経済力があった。韓国政府は何とか経済成長を遂げようとして非常に独裁的な体制を取った。民主化運動をする人たちを次々に逮捕・投獄した。その中には後に韓国大統領になる金大中がいた。また、詩人の金詩河もいた。それを弾圧したのは朴正煕政権だった。私たちは民主化勢力を支援し、朴政権を打倒するために闘っていた。

 あるいは、原発。原発もまた政府が貧しい地方を補助金で釣って、地方に危ないものを誘致させるのだった。静岡の反原発闘争は辛かった。「東京から来たアカの若造らに何がわかる」、「地元の事情を何あも知らんくせに」、「わしらは原発で豊かになるんじゃ」と言われ、地元の政治ボス、財界人、警察が一体となって我々を排除した。

 そして反戦。政府による靖国神社国家護持に反対。日米韓三カ国の軍隊が共同で行う演習「リムパック」全面阻止。

 私らにはやることがいっぱいあった。それは充実した生活だった。

 だが。その生活に陰りが見えてきた。

 きっかけは、この年の秋に起こった「内ゲバ殺人事件」を私が目撃したことだった。


2016年02月19日(金) アジト

 都会のアスファルトが溶けるような夏が来るころ、何度か「彼ら」の集会に顔を出した私は「事務所に来てみないか」という誘いに乗って「彼ら」の本拠地に行ってみることにした。

 それは奇しくも私が東北出身の痩せた男と一夜を裸で共にした安いアパートと同じ駅で降りるところにあった。そのアパートに行くのとは反対側の道を行くと「彼ら」の事務所なのだった。

 それは二階建てのマンションの一室で、扉には「XX企画」という会社のような表札が出してあった。扉を開けてみると広い部屋で、コピー機やガリ版の輪転機などが置いてあり、事務机と椅子が数脚、流し台には大きめの薬罐やカップラーメンの屑などがあった。その奥にも部屋があり、二人か三人の人が泊まり込めるようになっていた。

 壁にはグラフィックデザイナーの粟津潔がデザインした「空港は必ず緑野に戻す」と書かれた三里塚闘争のポスターが貼ってあった。部屋の隅にはビラやパンフレットのようなものが積み上げてあり、いくつか書籍もあった。

 私は気後れしなかった。なぜか「彼ら」にはすんなり入り込めた。

 それから私は何度かその事務所に行き、会計係のようなことをしたり、ガリ版でビラを作ったりした。「彼ら」とはあまり話すことはなかった。仲間に入ってしまうと「闘い」の生活をするのは当然という雰囲気があった。何月何日にどこへ行き、「闘い」をしてくるかという相談はした。それは事務的な相談であった。

 何度か通っているうちに、「彼ら」は特定のセクトには属さず、大学や職場からはみ出した人々がいつかどこかで寄りあって集団を形成したのだろうと思うようになった。中核のメンバーはやや年かさの二人の男で、実務はそれより若い美男子と言える男が取り仕切っていた。性を全く感じさせない女性メンバーも二人いた。

 私は酒屋のアルバイトをやめた。活動資金を得るにはそのアルバイトでは少なく、自由になる時間もなかった。それで、短時間でもっと金になり、勤務も不定期な肉体労働の仕事に就くことにした。

 不思議なことに、この生活が始まると私の同性愛は引っ込んでしまった。ときおりオナニーはした。だがそれは、性欲の発散というよりも、肉体的に溜まってくるものの処理だった。「薔薇族」に描かれているような男同士の恋愛は、階級意識を持たず、自立してない人たちが弱みを舐めあうために寄り集まっているように思った。


2016年02月18日(木) 活動に

 私は、この人たちが「過激派」と呼ばれるセクトではないかと疑ったこともなくはない。自分たちはそうではないと言っていたが、なにしろ正体を確かめたわけではない。ひょっとしたら抗争に巻き込まれて人を殺したり殺されたりすることがあるのかも知れない。

 しかし当時の私は不思議にそれを恐ろしいとは思わなかった。それでもいいとさえ思っていた。この都会の片隅でアルバイトで体をすり減らし、裸電球の四畳半で絶望を吐き出すようなオナニーをし、ときおりオトコのチンチンを求めてハッテン場をうろつく。そんな生活のどこにも明るい要素は見いだせず、何かやって死ぬならそれで構わない。

 ほどなくして私はメーデーに参加した。労働組合の色とりどりの旗が乱立し、代々木公園は立錐の余地もないほど人で埋まり、中央の演題のようなところではひっきりなしに誰かが胴間声で演説していた。私たちの集団は数名しかおらず、どこにも所属してなく、怪しい目で見られた。今から思えばそのときに私ははやばやと自分が仲間になった集団に何かの違和感を持ったのだった。

 だが、気持ちが運動に傾いていたときにはそんな違和感は気にならなかった。私はパンフレットを読み、本を読み、階級的なものの考え方を身に付けようとした。自分のうらぶれた生活は帝国主義のもたらす必然の結果だったのだ。その必然の結果がくつがえるのもまた歴史的な必然なのだ。

 やがて暑い夏が来て、私は本格的に彼等の仲間になった。


2016年02月17日(水) 政治の季節

 20歳の春になった。

 私は相変わらず木造の古いアパートの四畳半に住んで、近所のラーメン屋や定食屋で食事をし、酒屋でアルバイトをして生活費を稼ぎ、どことなく不満なような、鬱積した気持ちの捌け口がない日々を送っていた。

 風の強い暖かい日、私はお茶の水駅の駅頭でビラを撒いている人に出会い、何気なくそのビラを受け取った。

 そこには反戦の活動をしている人たちのことが書いてあった。1970年代の半ばである。街にはまだ左翼運動の残滓が残っていた。セクト間の対立が激化し、時々内ゲバ殺人事件が起こったりした。

 私はそれらを縁遠いものに思っていたが、そのビラに書かれた集会のある晩には、何の用事もなかったので、好奇心の方が勝って、私はある日その集会場に行ってみた。

 区立の勤労会館の中にある会議室には黒板があり、小さな教室といった具合に机と椅子が並べられていた。がらんとしたその部屋には数人の人しかいなかった。

 やがて講師がやってきて、沖縄や靖国神社の話をした。

 それから参加者が一人一人自己紹介をした。

 私はほとんど生まれて初めて人前で話をした。

 田舎の高校を出たこと。そこは部落差別の色濃く残る土地であったこと。近くに米軍基地があったこと。脱走兵を助ける組織があるというウワサだったこと。

 どうしてこんなに喋れるのか不思議なくらい、後から後から話が出てきた。

 終わると皆が盛大な拍手をした。盛大と言っても数人なので、たいした大きさではなかったが、私は自分の話が受け入れられたことに何か高揚感のようなものを感じていた。

 それから、年長の人に「次の集会にも出てみませんか?」と言われた。それで私は何気なく「そうします」と答えた。


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