VITA HOMOSEXUALIS
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2015年05月27日(水) オシッコ

 じめじめした梅雨の蒸し暑い晩だった。

 その日私は酒店の一角につくる臨時居酒屋で近所のおじさんたちにしこたま飲まされ、熟柿のような熱い息を吐きながらよたよたとアパートに帰って来たのだった。

 汗臭いシャツとパンツ姿のまま、私はどん、と横になった。そのまま眠ろうと思ったが眠れなかった。かなりの尿意を感じていたからだ。だが、私は廊下の端にある共同便所まで行くのがおっくうだった。

 「このままここでやっちまえ」私の頭の中に、悪魔の発するような、そんな声が響いた。それはいかにも異様なことのように思えた。でも、何もかも投げやりになっていて、どうでもいいと思う自分もいた。どうせ誰も見ていない。誰にも迷惑はかからない。

 そこで私はタオルと洗面器を取って、とりあえずタオルの中に吸い取ってしまおうと思った。芋虫のようなペニスを引きずり出した。しかし、オシッコなど出なかった。人間には何かそういう、羞恥で彩られた禁を犯すようなことが出来ない脳の仕組みが備わっているのだ。既に膀胱は破裂しそうだった。だが先端は一滴も漏らすまいとして硬く閉じていた。私はそのせめぎ合う力を何度か味わった。
 
 苦しくなった私は苛立ち、思い切りぐいといきんだ。

 腰の下で何かが動く気配がした。

 その数秒後、ペニスの先端から黄金の水滴が顔をのぞかせ、涙のように茎を伝わって股の叢の中に落ちた。そのときつんと刺激のある匂いが鼻を打った。

 それで私の頭は真っ白になってしまった。

 それからも力を入れ続けると、オシッコはだんだん滑らかに出るようになった。タオルでそれを受けたが、タオルがだんだん濡れて熱く、重くなってきた。洗面器にしようと思ったが、仰向けになったままの姿勢では液体を洗面器に受けることは出来ないのだった。

 そのうちに、それは噴水のように吹き上がって止まらなくなった。パンツの脇が濡れ、シーツが濡れて行くのがわかった。一部は畳にも吸い込まれたようであった。それはまことに奇態で哀れな放尿だった。私は低い声をあげて涙を流した。

 やがて腰回りはぐっしょりと濡れ、タオルはぽたぽた水滴を垂らすようになった。私はそれを顔に押し当ててみた。刺激のある、しかしどこか懐かしいような、甘い香りがした。

 いつしか私のペニスは勃起し、先端からぬらぬらと先走り汁を垂らしていた。

 私はそのまま左手をペニスに当て、上下にしごいた。オシッコで濡れ、先走り汁で濡れたペニスは手がよくすべり、激しく手を動かすと細かな白い泡が立ち、私の手が動くたびピチ、ピチ、といやらしい音を立てた。

 ついに快感の疼きがやってきて、私は大きな声をあげ、思いっきり射精した。

 それは腰が抜けるような快感だった。精はほとばしって私の腹にも、胸にも、太ももにも飛沫を散らした。

 その晩のオナニーはこれまでに経験したことのないほど強烈なものだった。

 ぼんやりとかすむ頭の中で、私は「明日洗えばいい」と思い、濡れたものを洗面器に入れて、下は裸のまま共同水道でタオルや下着を見ずで濡らした。

 その晩はいつになく熟睡した。

 こうして私はおシッコ遊びのファンになってしまったのであった。


2015年05月26日(火)

 酒店には高校生のお嬢さんがいた。私はお嬢さんと呼んでいたが、世間でいわゆる不良の一人であった。高校には特別なカウンセリングのために通っていた。タバコを吸い、酒を飲み、私をときどきトモダチとの飲み会に連れて行った。それは決まって近所の「もんじゃ焼き」の店であった。「おまえ、もんじゃって知ってるか?」お嬢さんはからかうように言った。私は知らなかった。

 あるとき、社長(オヤジさんのことをこう呼んでいた)と奥さんと、社長のお父さん(おじいさん)が旅行に出て、店には私とお嬢さんの二人になった。そこは夕方になると店の一角でするめを焼き、即席の飲み屋に変わって、近所のオヤジたちのたまり場になっていた。私はその日もその準備をしたが、社長がいないことを知っているので客は誰も来なかった。

 しばらくするとお嬢さんが「今日はもういいよ。店を閉めよう」と言った。私はシャッターをおろした。お嬢さんはこちらを見てにやにやしていたが、「おまえ、これ何かわかるか?」と薄いビニールの包みを私の目の前でひらひらさせた。それはコンドームだった。私はこっくりうなずいた。「押し入れから見つけたんだ。うちのパパとママ、あんなジジババのくせに、まだやってんだ。きったね」とお嬢さんは苦い顔をした。

 「おまえ、ヒマだろ、そのへん片づけてアタシの部屋に来いよ」

 私はうろうろと店仕舞いの仕度をして、二階のお嬢さんの部屋に上がっていった。部屋に入るとむっと女の子の匂いがした。大きなベッドと鏡台の周囲にはたくさんのぬいぐるみがあり、この人もわりと普通の少女なのだと思った。お嬢さんはベッドに仰向けになって寝ていた。

 「こっち来いよ」お嬢さんは寝たまま私を呼んだ。

 「おまえ、誰ともつきあってねえだろ。一人でむんむんしてんだろ。オナニーしてんだろ。やらせてやるからよ。これつけろよ」そう言うとお嬢さんは下半身に来ているものを脱いで、コンドームを投げて寄越した。下半身だけとはいえ、私は女性の姿態を初めて見た。お嬢さんの陰部は濡れて輝いていた。それを見ると私のペニスは勃起してきた。私も下半身を脱いでコンドームをつけた。

 「痛え、ばか、そこじゃねえよ」「何やってんだよ」挿入はうまく行かず、私はお嬢さんに怒鳴られた。そのうちにコンドームの中に射精した。

 「あ〜あ、やっちゃった。ばっかだねえ。こいつホントうすのろ」私はお嬢さんにさんざんののしられた。

 「いつまでも突っ立ってんじゃねえよ。はやく始末しろよ」そう言われてコンドームを外し、ゴミ箱に捨てようとすると、「自分で持って帰るんだよ、バーカ」という声が聞こえた。

 私は暗い夜道をコンドームをぶら下げて帰った。それを側溝に捨てた。

 しばらくして例の「不良の仲間たち」の飲み会があったとき、私は「ホモ」だといううわさを立てられた。実際にこのつきあいの仲間には若い鳶の男と自動車工の同性カップルがいた。彼らはわざと私の前でキスをしたりした。「おめえ、おんなダメなんだろ。これ見て感じるだろ」、彼らはキスをしながらケラケラと私の事を笑った。


2015年05月23日(土) 東京

 高校を卒業すると私は東京に出てきた。

 初めて見る東京は見渡す限り山が見えない。どこへ行っても祭りかと思うほど人が多く、人々は急ぎ足で歩く。その話す声はまるで怒っているかのように尖って聞こえた。

 私は今スカイツリーがあるあたりの近くに住んだ。それは木造の古い二階建てのアパートで、ぎしぎしときしむ階段を上がった二階の端が私の部屋だった。廊下を挟んで片方に三部屋あり、階段を上がった手前からトラックの運転手、バーテン、そして私の部屋があった。廊下の向かい側は階段を上がったところが共同トイレと洗面所で、二部屋あり、それぞれ学生が住んでいた。

 トラックの運転手はほとんど部屋にいなかった。バーテンは昼間は部屋にいて、ギターをかき鳴らして「旅の宿」を歌っていた。学生は同じ学校に通っていて、出身地が一緒らしく仲が良く、いつもどちらかの部屋にいた。

 階下には大家さんの部屋と、二部屋を子供連れの一家が借りていた。その他に誰がいたかは知らない。

 裸電球のぶら下がった四畳半が私の住むところだった。古い畳は少しふわふわした。私は布団と小さな机を買い、品川の方にあるコンピュータの専門学校に通った。アパートの近くの酒屋でアルバイトをした。「岡田商店」と白く染め抜かれた青い前垂れをして、ビールケースを運んだり品物の数を数えたりするのが仕事だった。

 ともかく一人になった。そこには大きな解放感があった。私は裸になって思う存分オナニーをした。同居する家族をはばかることもなく、誰にも見られず、隣のバーテンや向かいの学生を気にする必要もなかったので、私は喘ぎ声をあげてペニスをこすり、雄叫びをあげて射精した。

 このアパートは私が出てから取り壊された。シロアリが食っていて危険な状態だったという。


2015年05月22日(金) セブンティーン

 17歳にとって18歳になるということは老化なのであった。

 それは汚れた大人の世界に向かうということであり、感性に蓋をするということであり、現実と妥協するということなのであった。

 その頃私はまた一人の同級生と親しくなった。この子は本当にかわいい子だった。私たちはたびたび老化する悩みを話しあった。手紙を出し、小さな几帳面な字の返事が来た。それは私のかばんの中に忍ばせてあるのだった。

 私たちはたびたびお互いの家に遊びに行った。自転車で15分ほど離れている彼の家は農家だったが、土地を売ったので金が手に入り、綺麗な洋風の二階建てに建て替えたのであった。居間にはシャンデリアがぶら下がっていた。しかし、農家である本質は変わらず、シャンデリアの下にはタマネギが積んであり、ベランダには切り干し大根が干してあった。

 二階の彼の部屋で、ときに私たちはお互いの息が頬にかかるほど顔を近づけて小声で話した。彼の息は少し乳の匂いがする。

 私たちは未来の夢などは話さなかった。話すことは後悔であったり、不満であったりした。

 私は、オナニーをするときに彼の顔を思い浮かべた。そのことに私は最初はとても驚き、何か許しがたいことをしているかのように思った。だが、空想の中で私は彼にくちづけをし、彼の体を裸にし、彼のペニスを舐めるのであった。そう思うときだけが性的に興奮できた。私は多くの同級生とは違い、女の子の姿を思い浮かべてオナニーすることはなかった。

 私は彼に惹かれていると思った。その思いを手紙で伝えたかった。しかし、素直な言葉はいつも出て来ず、かわりに私は彼を落胆させるようなことを言うのであった。


2015年05月21日(木) 抒情のとき(2)

 私にはもう一人、弓道部の友だちができた。

 それは小柄で美しい少年で、内向的で文学的と思われていた。赤い皮の表紙のノートに銀色のペンで詩のようなものを書いていた。家が学校に近かったので、帰りがけに誘われたのが親しくなったきっかけだった。彼のお姉さんはとても美人だという噂があった。

 彼の家は広くはなかったがひんやりとして落ち着いたところだった。居間には大きな書棚があり、中央公論社の「世界の名著」というシリーズが並んでいた。やがてお姉さんがお菓子と紅茶を運んできた。

 「バッハはお好きですか?」と聞かれて、バッハが何者かも知らなかった私はびっくりした。それでとっさに「はい」と答えてしまった。

 「じゃあ、リヒターでいいかしらね?」とお姉さんはLPレコードを取り出し、音楽をかけた。何か静かな、さざ波を刻むような音楽が聞こえてきた。私はコチコチに緊張した。

 「本を読めよ」と彼は言った。私はそれまでマンガとSF小説と、遠藤周作がふざけて書いている笑い話しか読んだことがなかった。「SFが好きなら安部公房なんかいいかも知れない」と彼は『箱男』という本を貸してくれた。

 彼と話していると自分がすうっと純粋になって、精神的に高いところへ上って行けるような気がした。私は彼に手紙を書いた。彼からも返事が来た。それから文通が始まった。毎日学校で出会っているのに、私たちは手紙で話しあった。郵便で送ることもあり、かばんの中にそっと忍ばせておくこともあった。

 私の手紙は彼のものにくらべるとずいぶん稚拙だった。しかし、手紙のやりとりをするようになると、私は自分が彼を好きになって行くのを感じた。同級生たちは女の子の話をし、誰が可愛いとか、どの男とつきあっているとか、そういう話ばかりしていたが、そういう話が幼稚に思えた。


2015年05月19日(火) 抒情のとき

 先輩が卒業してから、私は幼なじみの同級生に生活態度を注意されるようになった。

 「これまでみたいなこと続けちょったらホンマにダメになるぞ」と言われたのだった。

 彼は、小学生の頃から知っている。近所の大きな醸造元の三男坊だった。背が高く、頭も良く、運動も良くできて、皆のリーダーだった。高校生になると、浅黒い彼の顔はギリシャの彫刻のように引き締まって輝いていた。

 「オマエ、体を鍛ええよ、素材はええんじゃから」

 彼はそう言って私の頬を両手で包んだ。若い木の香りのする彼の顔が近づくと、私は気が遠くなるように感じた。

 私は弓道部にいて、練習が終わると鹿皮の「ゆがけ」で臭くなった手を洗うためにグラウンドの隅の水道のところに行った。そこは陸上部のフィールド競技の練習場の隣で、走り高跳びの選手だった彼の体が若い鹿のようにはずみ、弓のようにたわみ、バーを越えるのを私はうっとりと眺めていた。

 ときどき、練習が終わると私たちは自転車を並べて帰った。

 私たちの高校は海を見下ろす丘にあり、下り坂から夕陽に輝く海が見えるのだった。

 しばらく自転車を並べて走ると砂浜だった。私たちは松林の中に自転車を止めて、遠くにヨット部の練習の帆が見える海を眺めながら並んで座り、ときに寝ころんで、いろいろなことを話した。

 「おまえ、卒業したらどうする?」私はあるときそう聞いた。

 「おれ東京に行く。東京の大学でドイツ語を勉強して貿易の仕事をやるんじゃ」彼はきっぱりと答えた。そんな先のことまで決めていることに私は驚いた。

 「そんならおれも東京行こ」私は何も決めてなかったが東京に行きたくなった。

 私たちは制帽を枕にして寝ころんだ。「おまえの心臓、ぬくいのう」彼は私の胸に手を当ててそう行った。私も彼の胸に手を当てた。「おまえの心臓もぬくい」

 彼の心臓は力強く脈打っていた。

 それから5年後に、その心臓は止まるのだ。だが、そのときはそんなことを知るはずもなかった。


2015年05月18日(月) 媚びる

 私は高校に入った。

 地元の高校は恐ろしいところだった。同和地区に肩入れする生徒と、朝鮮系に肩入れする生徒との間に険悪な対立があったからである。それは大人の世界の抗争を反映しているのだった。だから、それぞれのバックにはそれなりの「組」の力があった。もっとも、同和系の方には共産党によってある程度の「抑え」が効いていた。最も恐れられていたのは朝鮮系の数人の上級生で、この人たちのやることには教員も手が出なかった。

 その中でも最も凶暴という噂があったのは、赤茶色の髪の毛を持つ小柄な三年生だった。どちらかというと柔和な顔つきに見えたが、歯が欠けており、目を細めて笑うと凄みがあった。黒い制服のボタンはいつも上から二つばかり開いていて、裸の胸が見え、金色の細いネックレスが首にぶら下がっていた。靴はぺしゃんこで、ぺった、ぺったと音をさせながらいつもがに股で歩いた。

 取り巻き以外は誰も近寄らないこの男に、どういうわけか私は好かれた。私の方にすり寄ってきて、「おまえさん、可愛い顔をしちょるのう」と私の頬をなでたりした。彼はいつも私のことを「おまえさん」と呼んだ。

 私の方でも彼に媚びた。タバコを吸うときにライターを差し出したり、弓道場で酒盛りをするときに使い走りをしたりし、私は彼を「先輩」と呼んだ。

 そのうちに私は彼とその取り巻きと一緒に隣町のスナックに飲みに行くようになった。もっとも、私は形だけ水割りを頼んだが、形だけ口をつけるだけで、ほとんど飲むことはなかった。カウンターのストゥールは高く、座り心地が悪かった。ボックス席の背もたれは背が高く、当時のいわゆる「アベック喫茶」というものに似て、そこに座り込んでしまうと誰が座っているのかわからなかった。

 あるとき、先輩とその取り巻きの一人と三人で飲みに行ったとき、一人が居なくなった。

 「おまえさん、あれがどうしちょるか知っちょるか?」、赤茶色の髪をした先輩はにやにや笑いながら聞いた。

 私が「わかりません」と答えると「やりに行ったんじゃ」と笑った。スナックにはママともう一人の女性店員がいたが、その女性の姿が見えなかった。彼らはスナックの裏手にあるアパートの一室でセックスしているという意味だった。

 「わしらあも何かせにゃあつまらんのう」先輩はそう言って私をボックス席に誘った。

 店には他に誰もおらず、私たちはグラスを持ってボックス席に移った。

 「ここをいろうてくれえや」先輩は私と並んで座り、私の手を取って自分の股間に導いた。ズボンのファスナーはすでに開いており、そこから白いワイシャツの端がひらひらと蝶の羽のようにはみ出していた。私は目をつぶって先輩の股間に触れた。

 不思議にもそこはぐにゃんとしおれており、私が手を上下に動かしても硬くならなかった。そのかわり先端が粘液で少し濡れ、それが糸を引いた。

 「ああ、気持ちがええのう」先輩はグラスをぐっとあおって笑った。

 私は少し汗ばむほど熱心にそれをしごいたが、「そんなにせんでもええ」と言われて手を緩めた。

 私は彼が性的不能者なのではないかと思った。だから性欲が凶暴な暴力になって発散するのだ。きっとそうに違いないと思った。

 先輩のペニスに触ったのはそのとき一回限りだったが、その後も私たちはそこへ飲みに行き、先輩は私の頬をなでたり、唇をつけたりした。むっとするアルコールの匂いは当時の私に不快感しか起こさなかったが、私はこうやってこのグループに属していることによって、他の生徒から乱暴な仕打ちを受けることはなく、守られているのだと思った。


2015年05月15日(金) 乱暴

 私の通った中学校は右翼的なところであった。校庭に集まって朝礼をしたあと、「日の丸行進曲」で行進して教室に入った。生徒は全員運動部に所属しなければならなかった。

 私はテニス部に入ったが、もともと足が遅く、腕力もなく、球を追いかけるのも苦手で、いつも先輩からリンチのようなしごきを受けた。先輩の中でもいかつい顔つきと体つきのゴリラみたいな男がいちばん獰猛だった。

 中学二年生の夏休み、じりじりと日が照りつけ、地面は白く輝き、カンナの赤い色が毒々しく見えた。私はまた「へま」をやったので、ゴリラに怒鳴られて前衛の特訓をやらされた。私は校舎を背にして立ち、ゴリラが至近距離から球を打ち込んできた。私はもう足が追いつかず、ほとんどの球を打ち返せず、体に打撃を受けた。それでも右、左と走らされるので、とうとう足が転び、私はそこに倒れた。動き気もなかった。

 ゴリラは私に近づいてびんたを食らわし、木造の小さな体育倉庫に私を連れ込んだ。何かわめきながら私をマットの上に蹴り倒し、ところかまわずめちゃくちゃに蹴った。ボールやネットやライン引きが散乱した体育倉庫の中はむっとするほど暑かった。私はじわっと涙が浮かんできたが、泣いたら負けだと思ったので無表情のまま蹴られ続けていた。

 突然それが止んだ。ゴリラははぁはぁと熱い息を吐き、肩を上下させながら、突然自分の短パンをずり下ろした。そこにはぐっと上向きに佇立するペニスが赤黒く頭をもたげていた。私たちは、そろそろ柔毛のような陰毛が生え始めたかどうかをふざけあって見せあうぐらいだったが、ゴリラの股間には黒々とした剛毛の叢があった。私たちのペニスはまだ皮をかぶっていたが、ゴリラのペニスの先端は鈴のようにぱっくりと割れており、そこから透明な粘液がつーと流れ落ちていた。

 ゴリラは私の短パンも脱がせた。そして私の腹の上に覆いかぶさり、自分のペニスを私の腹に押し付けてごしごしと腰を振った。ゴリラは猛烈な勢いで射精した。

 大きく肩を上下させながら、ゴリラは「バラしたらブッ殺すぞ」と私を脅して首に巻いた汚いタオルを私の腹の上に投げ、自分の短パンを元の位置に戻して体育倉庫から出て行った。

 私は驚きで口もきけなかったが、ようやく腹の上に溜まったじゅるじゅるした粘液をふき取った。そして私は「勝った」という変な想念に取りつかれていた。

 私は射精直前のゴリラの顔を間近に見た。それはとても呆けた顔だった。頬は上気し、口元は緩み、目は潤んで焦点が合ってなかった。汗に混じって少し鼻水も垂らしていた。

 私は自分の容姿や態度がある種の乱暴な上級生を引きつけることを知っていた。ゴリラもその一人なのかも知れなかった。これを武器にして彼らを射精寸前に追い込めば、どんな乱暴な先輩だって怖くない。私はそこで「媚びる」という知恵のようなものを身に付けたのだった。
 


2015年05月13日(水) 性の目覚め

 私は小学校から中学校にあがる春休みに精通があった。

 いつものようにオナニーしているとその日はペニスが非常に勃起し、絶頂に達する前にペニスの先端から透明な粘液が出てきた。快感が絶頂に達したときに薄い精液がとろりと落ちた。その日は一日中ペニスの先端が濡れているようで気持ち悪かった。

 私は中学一年生のときに跳び箱から落ちて腕の骨を折った。ひじの複雑骨折だったので手術が必要で、地元の小さな個人開業の外科医院に二週間ばかり入院した。ギブスで固定して三角巾で固定した右手はほとんど使えず不自由したが、手術の痛みも引いたころ、私はある晩とても体の芯がむずむずと疼くのを感じた。病室はすでに消灯され、薄暗い常夜灯だけがあたりをほんのりと照らしていた。目をつむって眠ろうとすると女の子や男の子のいろいろな顔が浮かび、落ち着かなかった。同時に私はペニスが勃起してくるのを感じた。自由のきく左手で布団をめくり、その手を股間に持っていくと、そこは熱くなっており、ずうんと衝撃に似た快感が背中を走った。私はなかば無意識のうちに左手を動かし始めた。

 そのとき、ドアを「コン」と軽くノックする音と同時に扉が開いて看護婦が体温を測りにやってきた。私はあわてて布団を元に戻そうとして、そのときに右手のギブスをベッドの枠にぶつけた。小柄で若い看護婦は「あら」というような表情をして少し笑った。それから無言で私の脇の下の体温計を入れると、私の左手はもう動かすことができなくなり、突っ立ったままのペニスが看護婦の目前にあるのだった。

 「動いちゃあいけんよ」看護婦は私にそう言うとそっと私のペニスを握った。そのとき私はまだ包茎だったが、握られると先端から透明な液があふれた。看護婦はそのまま無言で少し怒ったような顔をして私のペニスを握った手をゆっくり動かし始めた。私は体温計を落とすわけに行かないので身動きが出来ず、体を硬くしていたが、そうするとペニスはますます敏感に反応して、涙のような液をたらたらと垂らすのであった。ほんの数回看護婦が手を動かしただけで私は射精した。看護婦はティッシュでその射精の後を綺麗にふき取った。私はその間体温計を脇の下にはさんだままだった。

 「誰にも言うちゃあいけんよ」

 看護婦はそう言うと体温の記録をつけ、部屋から出て行った。

 私はこのとき、それまで何とはなしに感じてきたオナニーの快感が「性」と結びつくのだということを知った。知ったというよりそれは直感であった。これは人と人とが結ばれるときに起こる感情であり、出来事なのだと私は直感した。

 それから私はぐっすり眠った。


2015年05月12日(火) 少年の孤独

 小学校に上がるときになると、私は郷里へ帰らなければならなかった。

 「わりゃぁ、こんなぁ、きなっちょるぁ」

 私は漁師町の子供たちが使う言葉が全然わからなかった。当然、遊びのルールも知らず、体も弱かったので、誰の仲間にも入れなかった。

 私は毎朝二キロの道を歩いて海沿いの小学校に通った。小学校は松並木の中にあり、古い木造の校舎で、むっとした匂いのする暗い昇降口から長い廊下を通って教室に行くのだった。便所はその建物とは違い、渡り廊下を渡って少し離れたところにあった。

 小学校の授業は面白くなく、先生の弾くオルガンに合わせて何か唄わされたが、私はいつもよそ見をしてろくに歌を唄わなかったので、よく叱られた。叱られるときにはゲンコツが飛んでくるのであった。

 私の半ズボンのポケットには穴があいており、私はそこから右手を突っ込んで授業中によくオナニーをした。子供の手は汚かったのに違いない。私は小学二年生の冬に膀胱炎になった。尿意を感じてもオシッコが出ず、苦しい日が続いた。あるとき私は熱が出て、ぼうっと気が遠くなった。それは冬の寒い日であった。そのとき、私は下半身に暖かいものを感じた。オシッコが漏れたのだった。漏れたオシッコは下着を濡らし、ズボンを濡らし、硬い木の椅子を濡らして木の床に染みを作った。

 「あぁ、こいつ、ションベンしちょらぁ」と誰かが頓狂に叫んだ。わぁっとはやし声が起こり、私の周りの子はみな立ち上がって私から逃げた。すぐに先生が飛んできて、怒ったような顔をして私を保健室に連れていった。そこで私は体操着に着替えさせられ、熱が出ていることがわかったのですぐに下校させられた。ませた女の子が私のランドセルを保健室に運んで来た。

 それから私はしばらく学校を休んだ。血尿が出て、熱はなかなか下がらなかった。

 一週間ほど休んで再び学校に出て行ったとき、皆が「しょんべん小僧、しょんべん小僧」と私のことをはやしたてた。

 私は怒りも泣きもせず、ぼんやりと松の木に寄りかかって海を眺めていた。


2015年05月11日(月) 丘の向こうの夕陽

 私は幼稚園で不登校になった。

 幼稚園だから不登校というのは変かも知れない。とにかく、通うことが出来なくなったのだ。いじめっ子がいるからだった。クレヨンで絵を描くとき、私が赤やピンクを使うと「おんな色」、「おんな色」と言ってからかった。私を納屋の中に閉じこめて外から鍵をかけ、「おまえは今日からここで木を食べて暮らすのだ」と言った。私はその納屋を破壊して外に出た。そして私は怒られた。いじめっ子は園長の息子だったからだ。

 ともかくこういうことがあって私は幼稚園に行かなくなり、祖母が私を祖母の住む町へ連れて行った。そこは郊外の住宅造成地で、祖母は叔母と同居しており、長屋のような市営住宅の一室だった。私は遊び相手もおらず、ひな壇になった造成地をダンプトラックやユンボが動くのを眺めていた。市営住宅もひな壇にあり、枯れ草の生えている斜面に排水溝が掘られてあった。私は丸い石をその排水溝に転がして遊んだ。下の段まで届いたら成功、途中で草にひっかかって止まったら失敗なのであった。私は夕暮れになって祖母が夕飯に私を呼びに来るまでそうやって何度もカラカラ、カラカラと石を転がして遊んだ。造成地の向こうには低い丘が連なっており、傾いた夕陽がその丘の向こうに落ちた。

 そうやって遊んでいるあるとき、私の手はどうしたはずみか自分の性器に触れた。私が何を思ったのか覚えていないが、私は性器をいじった。いじっているうちに得も言われぬ快感が下半身を襲った。私はオーガスムに達したのだった。

 今では幼児がオナニーをするのは珍しくないことを私は知っている。だが当時は、自分の体に起こった変化が何なのかわからず、そしてそれは誰にも明かしてはいけないことなのだと思った。もちろん射精はしない。勃起もしない。だが、快感だけは、成長して後に感じる性の快感と同じだった。

 私は毎日石を転がしながらオナニーをするようになった。当然ながらそんな名前も知らない。この世の中でこんな珍しいことを発見したのは自分だけなのだと思い、私はますます孤独を深めた。


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